J.S.バッハ 《マタイ受難曲》BWV244
プレ・コンサート 〜聖句とコラールによる〜
2014年4月26日(土)
日本聖公会 神田キリスト教会
福音史家=野中 裕
イエス=西久保孝弘
大祭司・ピラト=田中国治
ペテロ=八長和也
ユダ=木下圭一
偽証人T=福西みゆき
偽証人U=林 史哉
下女T=吉田 彩
下女U=大貫由香
ピラトの妻=志賀愛弓
独唱(ソプラノ)=簗田絢子
独唱(アルト)=根来 泉(第30曲)
独唱(アルト)=谷川 薫(第67曲)
独唱(テノール)=松原弘直
独唱(バス)=山原勝裕
合唱=合唱団スコラ・カントールム
オルガン=押野見真理
指揮=野中 裕
【プログラム】
解説(西條 康)
・コラール前奏曲《心より慕いまつるイエスよ、汝いかなる罪を犯し》BWV1093(オルガン独奏:押野見真理)
・《マタイ受難曲》BWV244 第1部 抜萃
・休憩(20分)
・《マタイ受難曲》BWV244 第2部 抜萃
【解説】(野中 裕)
本日はお忙しい中足をお運びくださいまして、本当にありがとうございます。この演奏会は、「プレ・コンサート」という名が示しているとおり、7月6日に上野学園・石橋メモリアルホールで行われる、J.S.バッハ作曲《マタイ受難曲》公演に先立つ「おさらい会」の要素を濃く持っております。そうは申しましても、せっかく皆様に公開して御批評をいただくのですから、単なる「名場面」や「合唱部分」の抜萃ではなく、ある一定のコンセプトを持った演奏会にしようと考え、本日まで試行錯誤を続けて参りました。
本来は二群に分かれた管弦楽の演奏を伴う《マタイ受難曲》の世界を、たったオルガン1台の伴奏によって再現することは不可能です。しかし「受難曲」というジャンルの特性上、演奏曲を「聖句とコラール」に限定すれば、ある程度充実した演奏が可能であるばかりでなく、「受難曲」の本質をえぐり出すことも可能になるのです。
本日はそうした意図をもって演奏会を構成致しましたが、そのためにはまず、「『受難曲』とは何か」という基本的な事柄を確認する必要があります。そこで以下にささやかな案内となる解説を記し、また演奏開始前の時間を使って、《マタイ受難曲》演奏会実行委員長の西條康より簡単なご説明を差し上げることと致します。そうは言っても、すでに詳細な知識をお持ちの方も多いでしょうし、紙幅・時間の関係もあってごく大雑把な説明しかできません。あらかじめ御諒解をお願い申し上げ、またお詫び申し上げる次第です。
そもそもキリスト教の宗教曲は、教会での典礼で実際に用いられていた音楽です。キリスト教の信仰とは、ごく端的に言えば「神の子であるイエスが人類の救済のため、たった一度だけ肉体をとって人となり(イエスの自称「人の子」という表現にご注目ください)、十字架上で人類の罪を贖うために血を流して死に、三日後に甦った」ということを信じるということです。この中でも最も悲劇的、かつ人類存在の根本的意義までを再考させる出来事が、イエスの捕縛、裁判、そして十字架上での死でありましょう。イエスの生涯については、新約聖書冒頭の四つの福音書(マタイ・マルコ・ルカ・ヨハネ)が報告しています。典礼の福音書朗読はいわゆる「棒読み」ではなく、抑揚を付けて読んでいくのですが、受難記事においては登場人物ごとに読み手を割り振るということが行われました。その際、伝統的に語り手=福音史家はテノール、イエスはバスに割り当てられました。また、多声部による作曲が盛んになってくると、祭司長や長老たち、群衆といった複数人物の発話を合唱で表現するようになります。15世紀頃のことです。
その後の受難曲の発展の詳細については専門書に譲ることとして、バッハが《マタイ受難曲》を作曲した18世紀前半のライプツィヒの様子を考察しておきましょう。
当時、受難曲のあり方には大きな変化が起こっていました。本来「聖書の記事を歌う」ことに尽きていたはずのこの世界に、全く別の要素が入り込んできたのです。器楽の導入や、オペラ特有の形式(アリアとレチタティーヴォ)の援用はその最たるものです。またテキストは福音書だけでなく、ドイツ・プロテスタントの賛美歌であるコラール、そして何より自由に作られた韻文を挿入することが普通になりました。つまり、聖書の受難記事の進行が自由詩によるレチタティーヴォとアリア、そしてコラールによって中断され、注解や反省を挟みながら歌われるわけです。こうした受難曲は、ジャンル的にはオラトリオに酷似していますので「オラトリオ風受難曲」と呼ばれますが、バッハの遺した現存する真作受難曲、つまり《ヨハネ受難曲》と《マタイ受難曲》は、このジャンルの頂点を極めた傑作です。
ちなみに、バッハの時代にはテキストを自由詩のみで構成し、福音書記事を全く排除した受難曲が人気を博していました。聖書の立場からしてみれば「軒を貸して母屋を取られ」たようなものですが、こうした受難曲(非常に紛らわしいですが、「受難オラトリオ」と呼ばれます)が出現する中で、バッハが「聖書を排除しない」受難曲を書いたことには、ライプツィヒにおける宗教的生活のあり方が大きく関わっているのです。
実はライプツィヒで「オラトリオ風受難曲」の上演が許されたのは、バッハがこの地に就職する1723年のわずか2年前、1721年のことでした。よく「ライプツィヒはルター正統派の牙城であった」などという言い方がされますが、確かに当時のライプツィヒでは、啓蒙主義・合理主義の拡大を防ぎ、礼拝の世俗化を防止しようとする機運が満ちていたらしいのです(このあたりの詳細な情報をご希望の方は、ギュンター・シュティラー著、杉山好/清水正訳「バッハ叢書」第7巻『バッハとライプツィヒの教会生活』[白水社、1982]を是非お読みください。原著発刊[1970]から40年以上を経た今日でも、読者に大きな示唆を与えてくれる名著です)。そうした立場にある教会の人々にとっては、コラールは別にしても、受難記事に自由詩を付け加えたり、器楽伴奏を伴ったオペラのような音楽にして礼拝に組み込むことは、許し難い暴挙であったに違いありません。そんな中で「オラトリオ風受難曲」の上演に向けて尽力したのが、バッハの前任の聖トーマス教会カントール、ヨハン・クーナウ(1660-1722)でした。彼は亡くなる前年の1721年に、初めてオラトリオ風受難曲である《マルコ受難曲》を聖金曜日の晩課(午後の礼拝)のために作曲・演奏し、翌年も再演されたということです(この曲に関しては、「不完全な形でしか現存しない」という以上の情報を筆者は持ち合わせていません。詳細をご存知の方のご教示をお待ち致します)。ここで注意しなければならないのは、例えばバッハの教会カンタータが午前中の主要礼拝で演奏されたのに対して、受難曲は晩課で演奏されたということです。当時のライプツィヒでは、受難節は「キリストの苦難をしのぶため、歌舞音曲、慶事の禁止」がかなり厳格に守られていたようで、主要礼拝においてはオルガン奏楽さえなかったことが資料的に確認されています。クーナウはオラトリオ風受難曲の演奏にやっとこぎ着けたものの、それは様々な制約のもとにあったことが容易に想像できます。
こうした制約が、バッハの受難曲にも大きく影響しています。これほどまでに保守的な風土の中にあって、彼が福音書記事を持たない「受難オラトリオ」を書く可能性はまずなかったでしょうし、たとえ福音書記事に基づいていたとしても《マタイ受難曲》のように大規模で革新的な音楽になってしまえば、それはまたそれで相当な批判が寄せられたでしょう。実際、これを耳にした婦人が「まるでオペラを聴いているようだ」と憤激したという逸話(真偽の程は定かではない)もあります。そこで今回、私たちはバッハの作曲した部分から自由詩による「レチタティーヴォ」と「アリア」を取り除き、「福音書記事(聖句)」と「コラール」のみに再構成することによって、「バッハが当時問題なく上演できた、受難曲の骨格部分」を明らかにしようと考えました。この部分を担っているのは福音史家、イエスなどの諸役を除けばすべて合唱であり、合唱団員は「受難記事の中で、今自分は何を歌い、何を注解し、何を反省しようとしているのか」を理解しやすくなると考えたからです。また作曲技法的には、聖句独唱部分はセッコ・レチタティーヴォ、つまり器楽の大規模なオブリガート伴奏を持たない形で作曲されており、合唱曲での器楽は、聖句部分・コラールともに、ほぼその全てが声楽と同じ旋律を重ねるだけの形(コラ・パルテ)で書かれています。従って、オルガン1台のみの伴奏でも十分に演奏が可能である、という事情も働いたのです。またすでにこの曲に親しんでいる方にとっては、「ここであの名アリアが歌われないとは!」というもどかしさを感じる瞬間も多々あるだろうと思います。これは台本作者ピカンダーの仕事の見事さと、バッハの的確な作曲とを、逆説的に再認識する機会になろうとも存じます。
ここから先は、《マタイ受難曲》の特徴である「二重合奏」に関するやや専門的な解説となります。
《マタイ受難曲》の特殊性として、二つの合奏体を要求するということが挙げられます。器楽も合唱も独唱も、それぞれ二組が必要になるわけです。これだけ大規模(=贅沢)な編成はバッハの宗教的声楽曲の中では非常に例外的で、聖句を赤インクで特筆した美しい自筆の浄書スコアとともに、バッハがいかにこの曲に特別な思い入れと地位とを与えていたかを示す証拠とされてきました。しかしスコアを一瞥しますと、私たちはこの「二重性」の奇妙さに戸惑うことになります。4声の合唱を二組必要とするバッハの音楽として代表的なのは「モテット」と呼ばれるジャンルの4曲(BWV225, 226, 228, 229)ですが、これらは二つの合唱体がほぼ完全に独立しており、合唱体間の掛け合いや8声入り乱れての対位法的展開にバッハの天才を感じます。ところが《マタイ受難曲》での二重合唱の扱いはこれと全く異なっているのです。
ピカンダーの台本では第1群に「シオン(の娘)」=主に忠実な者の寓意的人物、第2群には「信ずる魂」、という役割それぞれが与えられています。「シオン(の娘)」が生々しい受難への思いを述べるのに対して、「信ずる魂」はそれに反応し、省察するわけです。合唱がこの発想に関わる部分、すなわち第1, 19, 20, 27a, 30, 60, 67, 68曲では、こうした発想に合理性があります。聖句部分では、第1部で弟子たちの合唱を第1群だけが担当し、祭司長や長老の合唱を両群が担当するという振り分けもうなずけます。ところが第2部に入って「群衆合唱」が歌われるとき、確かに導入部分は二つの合唱体が掛け合いますが、それはすぐに一つにまとめられてしまい、4声体の合唱に「変身」してしまうのです。モテットに見られた魅力的な二重合唱の特質は、見る影もありません。 この現象を説明するためには、もともと《マタイ受難曲》は完全な二重合奏体のための曲ではなく、単一の合奏体のための曲であったという仮説を立てざるを得ません。バッハの弟子であるヨハン・クリストフ・アルトニコルの手になるものと信じられていた、1740年代成立と思われる筆写総譜(近年になって、これはアルトニコルの弟子であるヨハン・クリストフ・ファーラウの筆写であるという研究成果が発表されました)は、通奏低音のパートが一つしかありません。さらに第1部を閉じるコラールが自筆総譜にある大規模なものでなく、4声の単純コラールであること、その他細部の変更の様子から、おそらくこのファーラウ筆写譜はより初期、具体的には1727年ないし1729年の演奏に使われたものの写しであろうと考えられています。
つまり、バッハはまずこの曲を単一の合奏体のための曲として書いた。後に「第1群」として扱われるのはコンチェリスト、つまり腕利きの独奏者で、楽曲全体を演奏する人であった。それに対して「第2群」はリピエニスト、すなわちトゥッティ部分にのみ参加する人たちであったのだ。以上のような仮説(ダニエル・R・メラメッド『バッハの受難曲を聴く』[オクスフォード出版局、2005])が非常に説得力を持ってきます。バッハは演奏を重ねるにつれて、台本が持つ「二つのアレゴリーによる対話の構造」をより明確にする欲求にかられ、最終的には両合奏体を完全に分離したのだ、というわけです。実際にその名残は1736年以降の演奏にも反映されています。第39曲と第42曲のアリアでは、非常に技巧的なソロ・ヴァイオリンが要求されますが、それで穴の空いたリピエーノの第2ヴァイオリンパートには、別の合奏体の奏者を補充せよという指示が書かれているのです。
さてこうした事情を考慮していくと、「平等に分割された二つの合奏体を左右に離して配置する」という従来の常識的な考え方にも疑問が生じてきます。「《マタイ受難曲》が演奏された聖トーマス教会には前後にオルガンが配置されていたので、会衆の座る席を挟んで前と後に合奏体を置いたのだ」と考え、それと同じ布陣を取るという考え方もありますが、こんなに遠すぎる配置では、われわれアマチュアの合唱団などでは演奏が破綻してしまいます。また現実問題としてアマチュアの場合、平等に分けられた合唱体の一つしか機能していない状態では、団員全員が歌うときとの音の「質」に差が出すぎてしまいます。プロの合唱団や、よほど鍛えられたアマチュア合唱団なら話は別かもしれませんが、当団には当てはまりません。「ピカンダーとバッハが両合奏体に込めた理念を体現するためには、どんな事情があっても合唱団は厳格に二つに分け、他の合奏体の音符は一音たりとも歌わせない」という態度をとると、所々で「片肺飛行」のような音楽を聞かせることになる上、合唱団は歌う場所が減ってしまい、モチベーションを保つことが難しくなります。特に第2群は第1群に比べて技術的にあまり難しくない曲が多い(これも第1群=コンチェリスト、第2群=リピエニスト説の大きな理由です)ので、相当なフラストレーションを抱えてしまいます。「第1群はプロの客演4人を呼んでアンサンブル方式で歌わせ、合唱は第2群だけ歌えばよいではないか」という意見も出てくるかもしれませんが、これは歌手の実情をあまりにも無視した机上の空論となりかねません。第1群の、特に福音史家にかかる負担はおそらく堪えきれるものではなく、第2群しか歌えない合唱団の意欲の低下には歯止めがかからないでしょう。例えばカール・リヒターによる《マタイ受難曲》の演奏では、両合唱体を分離して配置せず、「他の合唱体であろうと、歌えるところはなるべく全員体制で歌う」という態度で徹底していました。これはこれで大変に潔い態度だと思いますし、それによって彼の演奏にいささかなりとも傷がついたとは考えられません。
本日の演奏は、この「歌えるところは全部歌う」主義を貫徹しています。さらに合奏体を分離しないことに加えて、パートの並びをまとめることも放棄しました。配列は原則として、違う合唱体、違うパートを歌う人間が隣に来るようにしてあります。これは、今回指揮と福音史家を兼ねる私の「全体の音をバランスよく聴ける配置にしたい」という現実的な要求とともに、「群の対話」ではなく、「個と個の対話」のイメージを現出させるためです。この配置によれば、例えば第1曲の「見よ」「誰を?」という対話が、合唱団のあちらこちらからふつふつと沸き上がってくるイメージが得られるはずです。オルガン1台の伴奏では「群としての対話」は望むべくもありませんから、この措置は無理に二重合唱の形を作るよりも音楽的に的を射たものだと思います。
その他、本日の演奏の特徴を記しておきましょう。
@ 演奏部分は「聖句とコラール」に限定した。ただし、以下の部分は演奏する。
a 第1,30,67,68曲。受難曲の枠組みを作る部分で、受難曲の歴史上早くから自由詩による作曲が行われていたこともあり、演奏に関して絶対に落とせない要素である。ただしオルガン1台では器楽前奏の効果が出せないため、第1曲と第68曲の器楽前奏は省略して、合唱が歌い出す部分から演奏する。なお第1曲の前にはこれに代わるものとしてオルガンによる前奏曲を演奏する。
b 第19曲。これはピカンダー自身がレチタティーヴォと組み合わせてコラールを指定している曲である。コラールを全曲演奏する態度を崩さないため、極めて例外的に取り上げることとする。
A 第29曲のコラール・ファンタジー「人よ、汝の大いなる罪を嘆け」は、初期稿にある第29a曲「イエスよりわれは永遠に離れず」に差し替えた。本日の演奏が初稿の精神をより反映していることと、第29曲がオルガン伴奏にはあまりにも不利であることを考慮した結果である。
B バッハは、歌手に対して「一人一役」のような割り当ては行っていない。オペラのような配役を施せば、それだけ上演に対する風当たりも強かったであろうし、何よりそれが可能なほどの歌手をバッハが持っていた可 能性は低い。しかし今回は合唱団の「おさらい会」という要素が強いので、聖句に登場する人物や、例外的に歌われるアリア・レチタティーヴォのソリストについては、原則として「一人一役」を充てた。しかし大祭司とピラトのみは、同一人物が歌う。これは純粋に音楽監督たる私の、声質への好みからの措置である。
私を含めて、ほとんどのアマチュア合唱団員にとって、バッハの《マタイ受難曲》とは「一生のうちにそうそう歌うことのできない、特別な意味を持った存在」でしょう。歌うこと自体が難しい上に、これだけ大規模な曲となりますと、下世話な話ですが掛かるお金も馬鹿にならない。合唱団スコラ・カントールムも、設立25年目にして初めての挑戦であることはご承知の通りです。しかし、本日のように「受難曲の骨格」を抜き出し、オルガン1台の伴奏、少し贅沢を言って通奏低音のチェロやコントラバスを付ける程度の演奏であれば、アマチュア合唱団持ち出しの「発表会」形式でも、何とかこの偉大な曲を身近なものと感じることができるのではないかと思うのです。指揮者や合唱団自体の未熟さはもちろんとして、本日のソリストもすべて合唱団員、つまりアマチュアですから、お聞き苦しい点は多々あると思います。しかしそれを逆手にとって勉強の手段とすることには、必ず何らかの意義があると信じます。どうかアンケートには厳しいご意見を率直にお書きいただきたいと思います。そして励ましのお言葉を頂戴することもできれば、この上ない幸せに存じます。
■ 合唱団スコラ・カントールム
ソプラノ
大貫由香・岡田彩子・岡野貴子・志賀愛弓・田中智美・長岡みゆ希・松井ゆみ・松野芳江・宮澤いづみ・簗田絢子・吉田 彩・吉原 彩
アルト
小林啓子・西條宗見・佐藤有恵・田中直美・谷川 薫・錦織麻里・根来 泉・広田七生・福西みゆき・山田康子
テノール
野中 裕・羽賀義成・林 史哉・藤井 崇・舟木拓也・松原弘直
バス
木下圭一・小林 健・西條 康・田中国治・西久保孝弘・八長和也・森 貴博・山原勝裕
オルガニスト・練習ピアニスト
押野見真理
■ ポジティーフオルガン提供・調律
石井 賢
■「《マタイ受難曲》プレ・コンサート」実行委員会
実行委員長:西條 康
実行委員:岡田彩子・長岡みゆ希・福西みゆき・宮澤いづみ・吉田 彩
会場担当:松井ゆみ
受付:中村太輔・石井 琢
録音録画:新村拓哉