私とスコラ・カントールム(1)
〜スコラ・カントールム誕生の頃


野中 裕


初回のエッセイを書くに当たり、丹羽氏から出された題目がこれである。最初から、ずいぶんと難しい注文をしてくるものだ。何しろこの合唱団を作ってから8年半も経ってしまった。そのころのことを思い出すことすら難儀である。

1989年12月、大学の卒業論文を提出した私にはもう何もなすべきことが残されていなかった。教員採用試験には合格していたものの、就職の口があるかどうかは2月にならなければわからない。年明けはレポート数本と語学の試験があるのみで、私は完全にモラトリアムの状況に置かれた。

人間、暇ができるとろくでもないことを考えるものである。私はそのころ大学の合唱団以外に2つの合唱団に入っていた。ひとつは「コレギウム・ヴォカーレ東京」という古楽を扱う少人数の団体で、国立音楽大学の卒業生が中心になってやっていたものだ。これは何とか続けようと堅く決心していたのだが、もうひとつの方はさまざまな理由があって就職を機に足を洗おうと考えていた。すると今まで3つやっていた合唱団が、一挙に1つに減ることになる。別に余裕を感じたわけではないのだが、この時初めて「自分で合唱団を立ち上げてしまおうか」と思い至ったのである。

その理由は簡単である。私は、大学時代に歌った曲が大好きだった。大好きだったが、その演奏に納得したことはほとんどなかった。このホームページにお越しの方には高校や大学で合唱をなさっていた方も多いだろうからおわかりになると思うのだが、大学の合唱団というのは、卒業・入学に応じて毎年4月に団員の入れ替わりがある。それは一方で新陳代謝が促進されて好ましい反面、せっかく定着した戦力がごっそりといなくなって、一からやり直しを余儀なくさせられるということでもある。そうした、「部活動」特有の技術的錬磨不足を取り除きたい。そして、できれば自分の納得行く解釈で、もう一度あの名曲たちにアプローチを試みてみたい。さらには、サークルという制約性から満足に演奏できなかった、バッハのモテットやカンタータ、初期ルネサンスの難曲にも挑戦してみたい。その理想の実現のためには、自分で合唱団を作ってしまうことが一番の早道だったのである。

確かクリスマスの頃、私は続けざまに大学合唱団のOBや、志を同じくする後輩たちに声を掛け、新しい合唱団を設立する趣意を説いて回った。明けて1990年1月13日、参加を予定してくれた10名余りの人たちに、私は次のような文を配った。


〈新合唱団の設立について〉

(1) 目標
室内合唱団でつちかった基礎的技能をもとに、さらに広い範囲から人材を求め、音程の正確で表現力の豊かな音楽の創造を目指す。
(2) 当面の具体的な活動について
a. とりあえず向こう2年間ほどは月1〜2回程度の練習(4月から)とし、その間にレパートリーの拡張と団員の増強、活動資金の備蓄に努める。1993年度をメドに演奏会が開けるところまでもっていきたい。(以下 b-d 略)
e. レパートリーはルネサンス・バロックを中心とするも特にジャンルの限定はしない。
f. この合唱団は大学のサークルの延長線上にあるような合唱団にはしたくない。アマチュアの自主運営でどこまでのレベルに達するかのチャレンジをしてみたい。(以下略)   


今改めて読み返してみると、特に f. のあたりがかなり力んでいて赤面の限りだが、ともかくもこうした理念のもとに、「新合唱団」は旗揚げを行ったわけである。その後この「新合唱団」は何度も沈没寸前の憂き目を見る。しかし、その苦労話を電脳空間に垂れ流すのはみっともないので止めておくことにしよう。当時はまだ合唱団の名前もなく、名無し状態は約1年半も続いた。現在の「スコラ・カントールム(「歌の学校」を意味するラテン語)」という名称にしても、なかなか良い名前が思い浮かばず、暫定的にこんな普通名詞のような名前を付けておいたのだった。その後も妙案は出ず、何やらなし崩し的にこの名称が定着してしまった。「東京スコラカントールム」という別の合唱団が存在することを知った時には、もう後の祭りであった。[1998年6月]


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