私とスコラ・カントールム(2)
〜スコラ・カントールムの目指したもの


野中 裕


私たちが最初の演奏会を開いたのは、合唱団が出来てから2年経った1992年3月のことであった。前回にも触れたように、私はすぐに演奏会を開こうとは思っていなかった。「地に足をつけてから」という意識があったのは事実である。しかし、私自身立ち上げたばかりのこの合唱団がどうなるか予測が付かなかった、というのが正直なところであった。世にアマチュアの自主運営の合唱団が多くあることは知っていたが、大抵の場合、指導者は専門の指揮者か声楽家を招いている。その中にあって、別に大学で音楽を専攻したわけでもない一介の愛好者が主宰して、一つの合唱団を指揮・運営していくことの困難さは容易に想像できたのである。だから、「2〜3回は空中分解を繰り返して、その中で残ったメンバーを主力として、何とか3年後には演奏会を」というつもりでいたのだった。

しかし私は信念として、自分が指揮するという方針を変えるつもりはなかった。それは自分の意図する音楽を世に問うてみたいという意識も大きかったが、それ以上に私は「アマチュアの自主運営」というところにこだわった。 専門家を指揮者として招聘した場合、その人脈・経験、そしてなによりもその音楽面の実力に対して信頼が置けるのは間違いない。しかしそれは、あらゆる意味で「先生と生徒」の関係を団員に強いることになる。同じアマチュアでも、オーケストラは客演の指揮者にその都度学び、対抗しながら成長していくこともできるかもしれない。しかし合唱団は明確に違う。ある指揮者のもとで訓練された合唱団は、如実にその色が出る。自分としては、その「色塗り」を、団員全員でやってみたかったのである。その際、専門家の存在はどうしても団員に遠慮、ないし自発性の欠如を引き起こす。ゆえに私は膨大なリスクを理解しながらも、誰か別のプロの指揮者を招くつもりは金輪際なかった。それは、9年目を迎えた今でも同じである。

当然、指揮者たる私は様々なアイディアや技術上の要求を出さねばならない。しかしそれに対して、誰もが自由に意見交換を出来る状態にしておきたかった。もし指揮者の解釈に異論が出た場合、皆でそれを議論し、実際に演奏し、その中でベストと思われる解釈を決めていく。

やってみると、これは殊の外面白かった。何か音楽上の問題が持ち上がって試行錯誤した末、「これでよい!」と確信出来るのが大変に愛おしい瞬間となった。無論、全員が納得行く音楽作りなどというのは殆ど不可能なものなのだが、少なくとも、誰もが表現上の意図を確実に掴むことにはなった。そして、奇蹟の瞬間とはあるものだ。時々、メンバーがばらばらに感じていた音楽像が、まるで焦点に集められた光のように、すっと一点に凝縮することがある。

自分の合唱団の団員を誉めるのが破廉恥なことかどうか、私にはわからない。しかし、こうした充実した瞬間を作り出してくれたのは、まさに団員の音楽のレベルと熱意の高さであったのであって、私はそのことへの称讃を惜しみたくない。わざわざ合唱団の設立目的に「音程の正確な」という一文を入れたのも、まず音程感覚が優れていなければ、こうした高次の要求には応えられまいと感じたからである。彼らはこの点、ことに頼もしかった。指揮者ひとりでは音楽は作れない。団員に恵まれたのは、幸運としかいいようがない。

初めての演奏会の開催は、私の予定より1年早く実現することになった。


(付記)しかしその後8年余を経て、私の音楽に対するスタンスも大分変わってしまった。未熟ながら音楽学の分野にもお邪魔させていただき、音楽に関する文章を公にすることが多くなった。また演奏の機会自体も昔とは比べものにならぬ程増えた。こうした中で、やはり「プロ意識」をもってやっていくことが必要なようにも思われてきた。実際、私たちの演奏に関して「指揮者の個性が感じられぬ」というお叱りを頂戴することもある。だが、8年以上かけて培った「全員で作る姿勢」だけは、絶対に失うべきではない。その意識は、今後とも変わることがないだろう。[1998年6月]


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