聞き手:丹羽誠志郎
−−−指揮者として、また運営者として、コンサートの意義を聞かせてください。手間もお金もかけて、一体なぜコンサートをするのでしょう?
まず第1に考えられるのが、普段の活動に緊張感をもたせるということです。ただ漠然と練習をしていると、どうしてもダレてしまいがちです。これに対して、コンサートという目標をもつと、緊張感を維持しやすいと思います。スコラ・カントールムではコンサートを大目標にしていますが、団体によってはコンクールをめざしてがんばっているところもありますね。とにかく、何かそういう目的があるほうがよいと思うのです。そして、もちろんのことですが、自分たちが練習してきた成果を多くの人たちに聞いていただきたいという希望もあります。
−−−コンサートがうまくゆくときとそうでないときがありますね。
これは大きな問題です。以前メンバーと話し合ったことがあるのですが、はたしてよいコンサートとはお客さんに喜んでもらえるということなのか、それとも歌い手が満足できるということなのか、という問題があります。極端な例を考えましょう。自分たちの歌いたい曲を集めて、自分たちのしたいように演奏して、それがうまくゆけば、満足感は得られるでしょう。でも、それでお客さんが眠たくなってしまったり、退屈したりしたら、私としては悲しいのです。私としては歌い手もお客さんもひととおり満足できるようなものにしたいのです。練習をしてコンサートに臨むときには、いつもバランスを考えます。歌い手が歌いたいと思える曲、そして楽しく歌える曲、私自身の音楽的欲求、そしてお客さんが多く集まって喜んでもらえるようなプログラミング、だいたいこの4つの要素のバランスですね。
−−−話を選曲にしぼって考えましょうか。歌い手にとって都合のよいプログラムと、お客さんに楽しんでもらえるプログラムは違いますか?
たとえばスペインの曲をとりあげるとすると、それだけでステージを組めば、短2度でがちがちぶつかるような曲が多くなります。そういうクラッシュするような曲は、うまくできれば歌い手としてとても楽しいと思います。でも、さすがに聞く側の立場になると、そればかりではきついでしょうから、曲調の柔らかいものと組み合わせて演奏することになります。妙なサービス精神を発揮するのは、口の悪い仲間からは「ヒヨってる」と言われますけれどね(笑)。全員が納得するようなプログラミングってありえないでしょう。
−−−演奏の面ではどうですか?
私がきちんとやって、歌い手がそれにのっかってくれるなら、すさまじいブーイングがおこらない程度の演奏はできるのではないか、という自信は出来てきました。またそれぐらいの練習はしなければならないことは当然です。その際目標となるのは、抽象的な言い方ですが、過不足なく、音楽が語るところを表現するということです。しかし、たとえそれが実現できて、自分たちとしてはうまくやったつもりでも、演奏には好き嫌いがありますから、全てのお客さんを納得させられるかどうかは問題がまた別です。
−−−それでは具体的な話にはいってゆきましょう。スコラ・カントールムとしての活動の中でもっとも感動的だったコンサートはどれですか?
どれも思い入れがあって、選びづらいですね。最近のところはまだ記憶が生々しいので、なんともコメントできません。今の段階では、最初の1回、2回、3回目が印象に残っています。第1回のときは、音程が狂ってしまったり、ひどい演奏がありました。でも、ジョスカン・デ・プレの『アヴェ・マリア』だけはとてもうまくいったのです。練習のときよりもうまくゆきました。特に一番最後の終止形は音程がぴったりはまりました。今まで一番うまく響いた5度だと思います。第2回目ではシュッツの『宗教合唱曲集』の曲を演奏しました。『それは確かなまことである』という6声部の曲で、最初のところでソプラノが1拍間違えて早く出てしまったのですが、かえってこれを契機に歌い手の気合いが高まったのです。途中 Gott(神よ)ということばが C メジャーの和音で響くところがあるのですが、ここが練習のときよりもずっと純粋な響きで歌えました。そのままの勢いでアンコールまで上手に歌えましたから、とても満足しました。第3回ではやはりシュッツの『ヨハネ受難曲』をやりました。これは曲がよかったです。名曲ですね。うまく歌えて、メッセージがお客さんに届いているときって、なんとなく空気でわかるんです。どの回が1番とは決して言えないけれど、歌い手とお客さんが満足を分かち合うという点で、そういう場面が印象に残っています。
−−−うまくゆかなかった思い出は?
ルーテル市ケ谷でやったとき(第4回)です。失敗というよりもノリきれませんでした。そのときには、1年かけて練習していたのですが、途中で雰囲気がだれてしまったのです。1年かけて練習するというのはいつものことでしたが、なぜかその年は緊張感を維持できませんでした。今から思えば、グループとしての過渡期だったと思います。最初13人でスタートしたころは、ラテン語のモテットばかりやっていました。基本的に透明感のある音をめざしてきました。その年になって初めてバッハに挑戦したのです。音の質がちがうので、うまくゆかないのです。そういうとき、どうしてもメンバーは弱気になりがちなのです。前はうまくできたのに……とね。グループとして、このあたりがひとつの節目だったと思います。もうひとつうまくゆかなかったのは第6回目、シュッツの『音楽による葬送』のときですね。原因ははっきりしています。この年には、定期演奏会を含めてステージを3つも踏んだのです。どうしても練習のペースが不規則になりがちですし、技術的にも体力的にもきつかったですね。
−−−その反対に、自分では満足しているのに、あまり評価されないことはありませんか?
あります。第2回のときシュッツをやりましたが、「シュッツの曲はもっと熱いはずだ」という意見がありました。ちょっと清潔すぎる、と。そのころはせいぜい15人で、厚い響きを作ることはできませんでしたし、またその頃の私は淡泊な演奏が好きだったのです。終止形でもあまりフェルマータしないような、そういうスタイルです。最近は人数が増えた都合もありますが、昔に比べて表現が濃くなってきていると思います。
−−−選曲には毎年こっているようですが、これは選んでよかったという名曲はありましたか?
バッハの『イエスよ、我が喜びよ』といいたいところですが、結果としてはメンデルスゾーンのイムヌス(『我が祈りの声を聞きたまえ』)。ソプラノの椋本さんにソロを歌ってもらった曲で、あれが一番よかったですね。この曲を選んだとき、まず先に『イエスよ、我が喜びよ』があったのです。それは早い段階で決まっていました。さて、それと組み合わせる曲を考えているうちに、メンデルスゾーンに行きついたのです。オルガニストがいて、ソプラノは椋本さんに歌ってもらうとして……という具合に決めたのですが、椋本さんの熱演に団員と客席が共振するような雰囲気が、とても印象に残っています。
−−−昔は歌いながら指揮していましたね。そのあたりの話は次回伺うことにしましょう。
[1998年7月/2001年6月、再掲載にあたり一部改訂]