私にとってのバッハ、そしてスコラ・カントールムの一員として


丹羽誠志郎

このエッセイは、2000年3月にスコラ・カントールムがバッハの《ヨハネ受難曲》を演奏するにあたって、その直前に書かれたものです。齊藤義雄の「スコラ・カントールムでのバッハ体験」と一対になり、スコラ・カントールムにおける「バッハ演奏」の大きな二つの思考の潮流を代表させることを目的として執筆されました。この文を草した丹羽誠志郎は残念ながら現在休団中ですが、現在でもスコラ・カントールムでの「バッハ演奏」は団員の間でさまざまな意見が交錯しています。あらゆる意味で、バッハは私たちにとって「特別な存在」なのです。


社会経済の仕組みが大きく変わりつつある中で、「聖域」ということばをしばしば耳にします。あまりよい意味ではなく、むしろ「これまで改革することはおろか、その意味を議論することすらはばかられるアンタッチャブルな領域」というようなニュアンスです。ですから、改革派のリーダーたちは「聖域なき改革」などというスローガンをを掲げたがります。私にとってバッハを一言でいうなら、いわば「他人様にとっての聖域」というところです。

スコラ・カントールムに参加するまで、世の中にこれほど「バッハ大好き合唱人間」がいることをしりませんでした。ある意味で、私にとっての「バッハ・ショック」だったと言っていいでしょう。私がスコラ・カントールムに出入りするようになったころ、練習の後といえば、いつも早稲田(練習会場)から高田馬場まで歩いて、安い飲み屋で飲んでいました。そこでは通例「バッハについて論じる派」と「とにかく飲む派」にわかれて座っていました。意図しなくても、類は友を呼ぶというか、結局はそういう感じ。この「論じる派」は、ろくに酒も飲まず、「カンタータ何番のバスのアリアが……」とか「モテット何番のフーガが……」とか、そういうごつい話をしていました。練習のみならず、そちらの方でもリーダー格であった野中裕は、日ごろのうっぷんをそこで発散しようとばかり、熱烈に小難しいことを語っていたように思います。その一方で「飲む派」(私はこちら所属)はバカな話しをして盛り上がっていました。

大学時代から音楽学を専攻していながら、私はバッハについてよく知りませんし、正直にいって今でもあまり興味がありません。もちろんバッハが優れた作曲家であること、つまり精密なフーガをたくさん作ったとか、手の込んだ象徴表現などをゴチャゴチャ盛り込んだらしいとか、それぐらいは知っています。また熱狂的バッハ・ファンがいるらしいことも知っていました。しかしその現物(?)を目の当たりにしたのはスコラ・カントールムが最初でした。バッハに興味のない音楽学研究者と、バッハを熱烈に語る音楽ファンと、一体どちらが珍しいのかわかりませんが、とにかく私はショックを受けました。

いわゆる古楽を含めたヨーロッパ・クラシック音楽の中で、バッハの肖像はその頂点に置かれているといっていいでしょう。そして2000年はバッハ没後150年の記念の年にあたります。バッハの人気は高まることはあっても、減ることはないでしょう。大筋においてそのことを批判するつもりはありません。ただ私には不健康に思われてなりません。私がかかわっている音楽学研究の分野でいえば、そうでなくても音楽学を志す人は少ないのに、その多くがバッハ研究(そしてモーツァルトやベートーヴェンなどごく限られた「巨匠」たち)に注がれるのは、実に無駄なことです。そうでなくても、もう100年ぐらい世界中の音楽学者たちがよってたかって研究しまくってきたテーマですから、新発見はごくごく限られています。重箱の隅を箸でつつくような作業に、世界の優秀な頭脳が忙殺されていると思うと、バッハに対する情熱も、それほどの頭脳ももちあわせない研究者にはほとんど狂気の沙汰としか思えません。かといって、バッハ本人やその作品についてはその隅々までがわかっているというのに、その周辺については案外と知られていない(らしい)のもおかしなことです。つまりバッハを愛するがゆえに、バッハ本人とその作品ばかりに目がいって、周辺が見えないのです。これは明らかに不健康です。同じことは演奏家の世界や、音楽産業の世界でも見られると思います。

つまり私にとってバッハとは、「他人様が崇拝する聖域」です。私にとってはそれほどでもないのですが、その筋の方々には神聖にして侵すべからざる存在のようです。そう、他人事。

そんな私が今回の《ヨハネ受難曲》のステージに出るためには決断がいりました。スコラ・カントールム以外ではモテット《おそれるな、私は君のそばにいる》と、カンタータ4番を歌ったことがありました。モテットの方はわかりやすくていい曲でしたが、カンタータの方は絶望的でした。ゴチャゴチャと難しいばかりで何も楽しくない。「私は何をしているのだろう?」という頭の中が?マークでいっぱいでした。バッハについてはこのとき決定的にアレルギーになってしまい、その後はもっとも歌いたくない作曲家になりました。スコラ・カントールムでカンタータ106番をとりあげたときにはステージには参加しませんでした。カンタータ特別演奏会もそうです。どうやらバッハの宗教作品の中でもカンタータは特に人気が高いそうですが、私にはその気持ちが絶対にわかりません。つまり「他人様の聖域であるバッハ」の中でもカンタータは格別に聖域というわけです。その後のモテット《イエス、私の喜び》は歌いました。やはりゴチャゴチャしていて、好きになれませんでしたね。でも野中裕が熱烈に指揮をする姿は面白かったです。10周年記念の催しが《ヨハネ受難曲》に決まったと聞いて、私はほとんど反射的に「出ない」といいました。とはいえ、団のホームページを担当させていただいたり、また野中裕には格別に親しくしてもらっているので、結局は勇気を出してチャレンジしようと思ったのです。バッハを歌いたいからではなく、スコラ・カントールムの一員としてグループの活動に参加しようという気持ちでした。これは今でも変わりません。

この決断は間違っていませんでした。練習にもよく出席しましたし、自分なりに熱心だったと思います。参加すると決意した以上は、バッハでも何でもがんばらなくちゃいけないと思いました。また人数比の都合もあり、バスから新天地アルトに移ったのもよい刺激でした。改めて思いますが、合唱は中間パートで、上下の音に耳を傾けながら自分の音をはめてゆくのが面白いです。この点でいえば、《ヨハネ受難曲》にはゴチャゴチャしたフーガ(ただし絶望的になるほどではない)もあり、和音を響かせるコラールあり、楽しめる構成でした。

私にとってバッハはあいかわらず「他人様の聖域」ですし、作品としての《ヨハネ受難曲》もまたかなりそれに近いといえます。しかしもう一方でスコラ・カントールムの一員としてこれまでこの曲を練習してきたのもまた事実です。私をこれを喜ばしく、また誇らしく思います。歌い手一人ひとりにいろいろな思いがあるでしょうが、私個人が考えるところでは、自分たちが積み重ねてきたものを存分にステージで発揮したいと考えています。技術的にいえば未熟なところばかりでプロの足下にも及ばないでしょう。しかしアマチュアの演奏には、時間をかけて熟成させた響きがあるはずです。これだけは自信をもっていい。いや、私たちにはそれしかないといえるでしょう。あとはもうステージのみ。客席の皆さまにこの思いをお届けできるようにがんばろうと思います。

[2000年3月、2001年8月再掲載]


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