スペイン黄金時代のはなし(1)
〜世界帝国への歩み


丹羽誠志郎

この連載は、1998年にスコラ・カントールムが第8回定期演奏会、および「栃木[蔵の街]音楽祭」で演奏した黄金期スペインの合唱曲にちなみ、おなじみの丹羽誠志郎がその背景をわかりやすく解説したものです。


今回のコンサートでは、ビクトリアをはじめ16世紀スペインの曲を演奏いたします。それにさきだち、その時代背景について簡単にふれておこうと思います。第1回目として、スペイン統一から世界帝国までの歩みを簡単にふれようと思います。

まずはじめにスペインとは何かという基本的な問題を考えなければいけません。今日でもスペインは地方ごとに特色豊かな国ですが、これはもともと別々の王国だったものが連合・統一して生まれたからなのです。ヨーロッパの16世紀といえば各地で戦争が絶えない激動の時代でしたが、スペインはこの戦いを勝ち抜き、統一後まもなくヨーロッパの覇者にして世界帝国たる地位を築いたのです。ここでは、この流れを各代の君主ごとにまとめてみましょう。

【イサベル・フェルナンド】スペインに統一国家をもたらしたのは、1469年 にカスティリヤの王位継承者イサベルとアラゴンの王位継承者フェルナンドでした。彼らが結婚によって権力を統一したことにより、現在のスペイン王国の原形ができました。そもそもイベリア半島は8世紀はじめから長いことイスラム教徒(ムーア人)の支配下にありました。ある学者の言葉を借りるなら、「アラブ人は711年にイベリア半島に侵入し、7年たらずでここを征服した。そしてスペインは、7年で失ったものを取り戻すのに700年もの歳月を要することになったのである。」いわゆるレコンキスタ(「国土回復運動」……直訳すれば「再征服」)は、領土をめぐる争いであり、また宗教戦争でした。1482年にカスティリヤ王国が最後のイスラム王国グラナダを征服し、イベリア半島はすべてキリスト教徒の支配下に入りました。

とはいっても、このカスティリヤ・アラゴンの2国は別々の社会機構も歴史経験もおおいに違いましたから、新しい統一権力の支配下に入った後も、それぞれの伝統を守ったままの連合でした。さらに、国内には中世以来商業を担ってきたユダヤ人、またレコンキスタの後もイベリア半島にとどまったイスラム教徒(ムーア人)がたくさんいました。彼ら彼女らは、形式的にはキリスト教に改宗させられていたものの、そのおおくは密かにもとの信仰をおこなっており、いわば国内の不穏分子だったわけです。ですから、イサベル・フェルナンドの統一権力とはいっても、その権力基盤は決して強固なものではありませんでした。しかしイサベルとフェルナンドはこの難局を見事に統治してゆきました。カスティリヤで横暴を極めた貴族たちの勢力を抑え、王権を強化しました。また異端審問を開設し、改宗したふりをしているだけのユダヤ人(コンベルソ)やムーア人(モリスコ)をとりしまり、国内の宗教問題をひとまず解決しました。

イサベルとフェルナンドは、異教徒を征服してキリスト教の統一国家をもたらしたという功績により、ローマ教会から「正統信仰の両王」という称号をもらいました。この両王の時代にはまだカトリックとかプロテスタントとかという区別がありませんでしたから、一般に知られている「カトリック両王」という名は、厳密にいえば不適切です。それはともかく、この後「カトリック王」という称号はスペイン王の別名として用いられるようになります。

【カルロス】イサベル・フェルナンドの王位継承問題を考えると、めぐりあわせの不思議さを感じずにはいられません。この夫妻は5人もの子供にめぐまれ、その姻戚関係によってあちこちと同盟を結んでゆきました。ここまでは順調です。しかしどういうわけか結婚後まもまくみんな早死してしまうのです。そして唯一生き残ったのが、ハプスブルク家のオーストリア大公フィリップと結婚したファナだけでした。彼女は精神病を患っていたため、彼女自身が女王の役割をはたすことができませんでした。そこでその長男カルロスがスペイン王位を継承することになりました。カルロスはすでにブルゴーニュ公となっており、そしてそののちドイツの神聖ローマ帝国皇帝となりました。ここにフランドル、ドイツ、オーストリア、イタリア半島の大部分、そしてスペインとその広大な植民地にまたがる大ハプスブルク帝国が生まれました。ある廷臣の言葉によれば「(海外の植民地を含めて)いまや陛下はアレクサンダー大王よりも広い領土を支配なさっているのです。」ですから、彼は帝国全体の統治にいそがしく、またスペインは常に帝国全体の政策という枠組みの中におかれることになりました。

カルロス王の治世はひたすら戦争にあけくれました。イタリア半島の覇権をめぐってフランスと戦い、ドイツ国内ではプロテスタント諸侯と戦い、地中海ではオスマン・トルコと手を組んだバルベリア(北アフリカ海岸)の水軍と戦いました。大帝国の支配者は、また常に戦場を駆けめぐる将軍でもありました。このとき彼の軍隊の中核をなしたのがスペイン歩兵部隊でした。スペイン兵はよく統率がとれており、個人能力にすぐれていたため、各地で恐れられる存在でした。また、その軍隊を支えるための軍資金も、かなりの部分がスペインが賄いました。税金を集め、公債を発行し、銀行から借金し、莫大な資金を調達しました。たしかにスペインは直接の戦場とはなりませんでしたが、軍資金の負担という点で、戦争の影響を免れませんでした。財務担当のロス・コボスは王に次のような手紙を送っています。「特別上納金を支払わなければならない一般大衆は、ほかの通常の税や臨時の税をも支払わねばならなかったために、その多くは、裸足で歩かざるを得ないほどの全く悲惨な境遇に陥っています……なぜなら彼らは資力がないために、年貢を支払うことができないからです。しかも、牢獄は人であふれています。」

【フェリペ】大帝国の支配と絶え間ない戦争、そしてプロテスタント勢力に対する敗北などでカルロスは心身ともに疲れ果てていました。痛風をはじめいろいろの病気を患っていたといいます。君主という職業(?)はおおよそ死ぬまでお勤めするものと相場が決まっていますが、カルロスは1556年にスペイン王を息子のフェリペに、神聖ローマ帝国皇帝を弟のフェルディナントに譲って引退しました。カルロスがもともとブルゴーニュ出身でオーストリアやドイツの支配者を兼ねていたのと比べると、フェリペはスペイン生まれのスペイン育ちのスペイン王でした。彼が支配したのは直接スペイン王国にかかわる領土だけでした。といってもスペイン本国、フランドル地方、イタリア半島の大部分、海外の植民地と、その版図はとても広く、「陽の没しない帝国」と呼ばれました。1580年にはお隣ポルトガルも支配下に入りました。アメリカ大陸からは銀をはじめさまざま資源や品物がもたらされました。スペインの海軍アルマーダは無敵をほこり、まさにスペイン帝国は絶頂期を迎えました。

黄金時代をむかえたスペインですが、決して戦火が止むことはありませんでした。1559年にフランスとの戦争に終止符をうつと、すぐにネーデルランドで反乱がおこりました。猛将アルバ公を派遣し、血の粛正を断行しましたが、北部7州は同盟を組んで1581年に独立を宣言しました。東地中海ではオスマン・トルコと制海権を争い、このときにはスペインを中心にしたキリスト教連合軍がオスマン・トルコ軍をレパントの海上で破りました。またフランス内乱に干渉したり、力ずくでポルトガルを併合したり、あちこちで対外戦争を繰り返しました。国内でも暴動が絶えませんでした。フェリペがカスティリヤを優位に扱う政策をとることに反発してアラゴンで反乱がおきました。またグラナダではイスラム教徒が新月旗をふりかざして暴動を起こしました。そしてとうとう1588年には国運をかけて、無敵艦隊アルマーダをイングランドへ送ります。イングランドはオランダ独立戦争で敵方を支援したり、スペインの商船に海賊行為をはたらいたり、スペインにとっては腹立たしい相手だったのです。しかしそれはサラミスの海戦を思いださせる苦い結果に終わりました。アルマーダは130隻もの大艦隊でしたが、イングランドは80隻ほどの艦隊でこれを敗走させました。さらに悪いことに、失意のうちに帰国するアルマーダ残党に嵐が襲い、本国まで帰りついたの50隻ほどだったといいます。この決定的な敗北によりスペイン帝国は大西洋の制海権を失い、また同時に国そのものの衰退が始まりました。

さて、駆け足で16世紀のスペインの政治を眺めてきました。絶え間ない戦争、世界帝国への野望、そして敗北と挫折……16世紀のスペインは黄金時代を迎えていました。しかしそれは16世紀的な意味での黄金時代でした。「戦争こそ自然状態である」というナポレオンの言葉を待つまでもなく、世界帝国スペインは常に戦争をくりかえしていました。アメリカ大陸から莫大な量の銀を掘り出したにもかかわらず、軍資金がかさんだために、フェリペの治世だけでも数度にわたり「破産宣言」をだしています。つまり借金返済を停止する、というやつです。15世紀から16世紀にかけて絶大な富をほこった名門銀行家フッガー家はこれが原因で破滅しています。

世界帝国とは、その権威によって平和をもたらすものとされています。たとえば古代ローマ帝国がもたらした安定状態を称して PAX ROMANA (ローマによる平和)と呼びます。同様に PAX BRITANNICA(19世紀に大英帝国が世界の大部分を支配したときのこと) PAX AMERICANA(第2次世界対戦後にアメリカ合衆国が世界中に影響力を行使したこと)という言葉もあります。しかし PAX HISPANICA というのはあまり聞きません。スペインは世界帝国でありつつ、常に戦っていたのです。ここにヨーロッパ16世紀の政治を理解するカギがあるような気がします。

●次回は宗教の話の予定です。[1998年7月、2001年8月再掲載]


このページのトップに戻る