スペイン黄金時代のはなし(2)
〜ローマ教会の守護者として


丹羽誠志郎


16世紀スペインのおはなし、第2回目のテーマは宗教です。

まずはじめに、16世紀ヨーロッパにとって宗教とはどういうものであったか考えてみたいと思います。とはいっても、これはとても大きな問題ですから、ここでは2つの点を指摘しておくだけにします。まず第1に、16世紀は戦乱の時代であり、宗教的分裂の時代だったことです。フランスとオーストリア=スペインがイタリア半島の覇権をめぐってはてしない戦いをくりひろげました。オスマン・トルコ帝国は全盛期をむかえて地中海から東欧に力をのばしてきました。そしてルター、カルヴァン、ツヴィングリらによる宗教改革、また英国国教会の独立など、それまでの秩序がつぎつぎと崩壊してゆきました。宗教はいつも政治と裏表であり、宗教問題について意見を述べることは、自分の政治的立場を論じることと同じことでした。そして第2には、この時代には宗教とならぶ価値体系がほとんどなかったということです。この時代には、いわゆる科学知識が発達しましたが、今日のように知識が体系化されていませんでした。まだ科学的の知識によって世界を秩序だてて考える、というような発送はなかったといっていいでしょう。つまり、世界の秩序や人生のあり方に基準と指針を与えてくれるものといえば宗教しか考えられませんでした。宗教は政治であるとともに、人々が思い描く世界像そのものだったのです。 16世紀スペインの宗教事情を考えると、一方ではキリスト教徒、ユダヤ教徒、イスラム教徒が入り交じっていた多宗教国家という側面があり、もう一方ではカトリック勢力の最右翼という側面がありました。これらは決して矛盾することではなく、むしろある1つの状況の表面と裏面を表していると言えます。

8世紀初頭にイスラム教徒(ムーア人)がイベリア半島を占領するまで、イベリア半島はローマ世界の一部であり、またここの住民はキリスト教徒でした。詳しくわかっていませんが、紀元後1世紀の半ばに聖パウロがイベリア半島へ布教に来たのが最初だと言われています。これに対し、7世紀以降のムーア人による支配は、イベリア半島がアラブ世界の一部になったことを意味します。そして何世紀にもわたってくりひろげられたレコンキスタは、イベリア半島を再びキリスト教世界に取り戻す運動でした。というわけで、西ヨーロッパのどの国にもまして、スペインは複雑な宗教経験をへてきました。16世紀のヨーロッパでは宗教が実際の政治に深くかかわっており、特にスペインではレコンキスタが完了したばかりでキリスト教的ナショナリズムが激しく燃え上がっていました。

【イスラム支配】前回お話ししたように、711年からムーア人が怒涛の勢いでイベリア半島を征服しました。最初は地方ごとに豪族が競い合う無秩序状態でしたが、アブデラマン1世(756-788)が、その卓越した政治力にくわえて、旧ウマイヤ王朝の血を引いているという権威によってイスラム支配の基礎を固めました。さて、ここまでは宗教というよりも政治権力の問題です。宗教とは、単に個人々々や共同体の精神のよりどころであるだけでなく、社会制度や文化に深く根ざすものです。支配者がかわったからといって、あっちからこっち、こっちからあっち、という具合に取り替えられるものではありません。ムーア人がたちまちイベリア半島を征服したからといって、住民がすぐにイスラム教に改宗したわけではなかったのです。イスラム教は伝統的に異教徒に対して寛容というか、権力に従順であるかぎり、自分たちの支配地に異教徒が住むことを許してきました。このあたりは、世界的宗教としてはやや後発だったイスラム教が、その後各地に勢力を広げてゆく中で、それぞれの土地にすむ異教徒たちとうまく付き合いつつ、権力を安定させるための知恵だったのかもしれません。

さて、ムーア人支配下でキリスト教の信仰を続けた人たちをモサラベといいます。「アラブ化されたもの」という意味だそうです。彼ら彼女らは地下組織みたいなものをつくって、お互いに連絡をとりあったといいます。こういうと、まるでカタコンベにもぐっていた古代ローマの初期キリスト教徒か、我が国の隠れキリシタンみたいな感じがします。たしかにあまりおおっぴらな活動はできなかったようですが、かといって激しい弾圧にあったわけでもなかったようです。さきほどモサラベたちは活発な活動をくりひろげました。信者たちの日常の宗教生活にかかわることはもちろんのこと、さらには「キリスト猶子説」なるオリジナルの神学解釈をもちだして、本家のキリスト教世界で物議をかますほどでした。(もっとも、これは異端とされて、ほどなく消えてゆきますが。)イスラム支配下のキリスト教という点でぜひともふれておかなければならないのがサンチャゴ・デ・ラ・コンポステラに使徒聖ヤコブの墓がたてられたことです。現在でも多くの巡礼者をあつめるこの教会は、イスラム支配下のイベリア半島にあってキリスト教徒のよりどころとして大きな意味をもっていました。

しかし、時の流れとともにイスラム文化はイベリア半島に根ざしてゆきました。イスラム支配がはじまって2世紀がたつころ、イスラム支配が最盛期をむかえます。商業が栄え、バグダッドなどアラビア文化の中心と交易が盛んに行われました。アブデラマン3世(912-961)は自らの宗教的権威をいかして、統一王朝コルドバ・カリフ王国を樹立しました。10世紀半ばにはイベリア半島は完全にアラブ世界の一員でした。国民の大半がアラビア語を話し、イスラム教徒になっていました。政治につづいて、社会的・文化的にもアラブ世界に入ったわけです。

【レコンキスタ】レコンキスタとは「国土回復運動」と訳されることが多いですが、直訳すれば「再征服」という意味です。かつてローマ・キリスト教世界の一部だったイベリア半島がイスラム教徒に征服されたので、また征服しなおそうという運動です。もちろんキリスト教の立場からの言い方です。このとき、キリスト教勢力のよりどころになったのは、いうまでもなくローマ教会の錦旗でした。彼ら彼女らにとって「征服(conquista)」という言葉は、単に権力を握るというだけでなく、異教徒を追いだし、キリスト教世界に取り戻すという意味をもっていました。たとえば、15世紀には一時期レコンキスタは停滞気味でした。しかし1453年にコンスタンチノポリスがオスマン・トルコ帝国によって征服されたのをきっかけに、十字軍的情熱がイベリア半島のキリスト教徒を包み込み、グラナダ王国は数十年のうちに陥落することになります。グラナダ王家としては、オスマン・トルコのスルタン(皇帝)が思い切った行動に出たがために、とんだトバッチリを受けた形になりました。 1492年グラナダが陥落し、レコンキスタは完了しました。いまやイベリア半島を熱狂的な宗教的興奮がつつんでいました。かつてムーア人は宗教的寛容さをもってイベリア半島を征服しましたが、キリスト勢力は一方的な宗教的情熱をもってそこを再征服したのでした。ここで思いだしてください。宗教とは権力者の都合とは別に、その土地の習慣や伝統に深く根ざすものです。いくらキリスト教勢力が熱狂的にレコンキスタを進めたからといって、必ずしも住民がつぎつぎキリスト教に改宗したわけではなかったのです。つまり現在のスペインを含むイベリア半島には「こちとらイベリア生まれのイベリア生まれ、ジイさんの代から根っからのイベリアっ子よお、ちーん」みたいなイスラム教徒がたくさんいたわけです。しかしキリスト教勢力は宗教的不寛容の立場を取りました。イサベルとフェルナンドはローマ教会から「正統信仰の王」という称号を授けられていました。国家として異教徒は許さない、国外追放、という政策をとったのです。たしかに何百年というレベルで考えれば、それは「再征服」だったかも知れません。しかし、現地で生活をしていた普通の人々にとってはただの侵略戦争であり、自分たちの生活権をおびやかすものであったことはかわりません。

最後のグラナダ王ボアディブルをはじめ、6000人にものぼるムーア人はアフリカのイスラム教国に亡命しました。そのほかではイスラム教徒の強制的改宗がおこなわれました。なかには、かつてムーア人がやったように穏健に、少しずつイスラム教徒をキリスト教化しようとする人もいたようですが、やはりこういう狂信的な雰囲気の時代には、そういう穏健派よりも急進派が勢力をもつものです。こうして、国内に異教徒をかかえながらも、宗教的には寛容でない国・スペインが生まれました。この矛盾は16世紀に問題の種をまくものでした。

【スペイン王国と異端審問】1469年にイサベルとフェルナンドが結婚し、スペイン王国が生まれました。イベリア半島の統一とレコンキスタの完成を祝して、ローマ教会はこの君主夫妻に「正統信仰(カトリック)の王」という称号を授けました。つまりスペイン王国は、その建国からしてガチガチのカトリック王国だったのです。しかしその内実は、国内に多数のイスラム教徒やユダヤ教徒をかかえていました。ユダヤ人についてはこれまで具体的にお話ししませんでしたが、地中海貿易をささえる商人として、イベリア半島を含め、古くから地中海世界のあちこちに住んでいました。先祖以来のユダヤ教の信仰と文化を守り、異郷にいながら民族の文化をかたくなに守っていました。このような非キリスト教徒たちは、洗礼をうけてキリスト教徒として登録することを強制されていました。しかしそれはまったく形式上の問題であり、実際にその多くはひそかに昔からの信仰を続けていました。ただし、かつてイスラム支配下のキリスト教とはちがい、常に迫害の危機にさらされていました。こちらはわが国の「隠れキリシタン」と似た状況です。実際、隠れイスラム教徒(モリスコ)たちが反乱をおこすこともありましました。

16世紀スペインの宗教といって、誰もが思い浮かべるのが異端審問でしょう。いわゆる魔女狩りです。密告による逮捕、はげしい拷問、そして残酷な処刑など、暗く重苦しいイメージをもっています。しかし、この姿は異端審問という制度が始まったときのものではないようです。異端に対する取り締まりは中世以来どこでもありました。十字軍の名前を冠して異端派征伐が行われたこともありました。しかしスペインでの異端審問は、キリスト教内の異端学説を制圧するというものではなく、形式的にキリスト教徒になりつつも、影では昔ながらの信仰を捨てようとしないエセ・キリスト教徒を取り締まる機関として始まったようです。中世以来、イスラム教・キリスト教を問わず、イベリア半島の国々ではユダヤ人が経済の中枢を握っていました。もともとムーア人は異教徒に寛大でしたし、またキリスト教国においてもその活躍ぶりが重要だったために、他のヨーロッパ諸国にくらべてユダヤ人は抑圧されないでいました。しかし異教徒であることにはかわりません。特に疫病の流行などで社会不安が高まると、「それはユダヤ人の陰謀である」というようなデマが流れました。こういうことは現代でもしばしば見られることですね。とうとう1391年にはイベリア全土で大規模な反ユダヤ人暴動がおこりました。このとき、ユダヤ人の多くが、命を守るために改宗しました。コンベルソといいます。一部のコンベルソは裕福で、社会的に大きな力をもっていました。そして、その社会的地位を守るために、自分がエセ・キリスト教徒ではなく、心から改宗して、キリスト教体制に従順な人物であることを示す必要がありました。そこで、教会や宮廷で地位をもつ有力なコンベルソたちの運動によって、1478年にカスティリヤの異端審問法廷が開設されました。

このように、異端審問は隠れユダヤ教徒を取り締まるための機関として出発しました。そしてこれをきっかけにユダヤ人に対する抑圧は大変きびしくなり、その多くがスペインを去りました。有能な商人にして資本家であったユダヤ人を大量に追放したことで、スペイン経済は大きな打撃をうけることになります。その結果はさておき、ユダヤ人追放によって、異端審問は当初の目的をはたしました。一定の成功を収めたということで、異端審問の権威は高まっていました。そしてフェルナンド王が1516年に亡くなり、抑制のタガがゆるんだとき、その暴走を止めることができないところまできていました。このときの長官はシスネーロス枢機卿。カトリック体制の中でももっとも急進派で、異教徒や非正統信仰に対して徹底的に戦うことを誓っていました。前にもお話ししたように、スペイン王国は「寄り合い所帯」国家でした。ローマ教会のイデオロギーは、国家を統一するための唯一にして最大の武器でした。ときあたかも宗教改革の嵐がふきあれ、その勢いはピレネー山脈の向こう側まで迫っていました。さらに、スペインの「正統信仰主義者」たちは、穏健で理知的なカトリックであるエラスムス主義も取り締まろうとしました。その背景には、ローマ教会の権威をめぐる教義上の問題もありましたが、さらに当の国王カルロスはエラスムス信奉者だったことも関係があったようです。このブルゴーニュ生まれの王様と、地元のスペイン貴族とはうまくゆかないところがありました。いわば、王様が憎ければエラスムスまで憎い、というところです。

いわゆる「魔女狩り」の実態、そこでおこなわれた苛酷な拷問などは、ただ宗教史という視点ばかりでなく、法制史の立場から見ても重要な問題です。宗教にはかかわらないとしても、不当逮捕・自白強要による冤罪事件は現代にも見られます。しかし、ここではその問題に立ち入らず、異端審問が社会的にどういう意味をもったかを中心に考えてみましょう。宗教裁判という制度はスペインだけに見られたわけではありません。カトリック、プロテスタントを問わず、ヨーロッパのどこでも見られました。ただ16世紀には 宗教のちがいは政治勢力の塗り分けであり、宗教問題は政治と裏表の関係にありました。宗教裁判は、いわば国家体制を固めるための機関でもありました。実際に「魔女取り締まりマニュアル」の類が刊行され、カトリックでもプロテスタント諸派でも、魔女狩りが大掛かりに、システマティックに行われました。それではなぜスペインの異端審問は格別に悪名高いのでしょうか。まず第一に徹底的な秘密主義をとったこと、さらに被疑者とその家族の財産を没収する権利をもっていたこと、さらに密告を奨励したこと、の3点があげられます。秘密主義をとるということは、いったん逮捕されると、どんなに残酷な拷問にかけられるか、そしてどういう手続きで処刑されるのかがわかりません。これにより異端審問法廷は実像以上の恐怖感を与えました。財産没収権をもつということで、被疑者が自分の異端行為を「自白」し、教会に赦しを乞うと(「教会との和解」)、それは自分の生命と名誉を失うだけでなく、家族の財産は没収され、一族が経済的に破滅することを意味しました。そして一番問題なのは、相互の密告を奨励したことです。人々はお互いに疑心暗鬼になり、率直な意見の交換ははばかられ、つねに他人の陰謀におそれながら暮らさなくてはならなくなりました。このようにして、その最盛期にありながら、スペインの社会は活力を失ってゆきました。もっとも正統な信仰以外は、エラスムスもふくめてすべて取り締まろうというこの姿勢により、スペインは世界帝国でありつつ、閉鎖的な国家になったのです。

●次回は音楽の話の予定です。[1998年7月、2001年8月再掲載]


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