スペイン黄金時代のはなし(3)
〜そして音楽は


丹羽誠志郎


16世紀スペインのおはなし、最終回のテーマは音楽です。

スペインの音楽というと、現代ではギター音楽、フラメンコ、そして独特のバレエが有名です。どれも情熱の国の名にふさわしく、熱く、陰影にあふれた芸術です。イギリス、ドイツ、フランス、イタリアその他のヨーロッパ諸国とはちがう、独特の味わいをもっています。16世紀のスペインでは、一方で正統派ポリフォニーの王道を歩みつつ、一方で独自の音楽を生み出しました。このことを、16世紀のヨーロッパ音楽の文脈で見てゆきましょう。

まず話の大枠として、16世紀のヨーロッパ音楽全般について、簡単にお話しましょう。16世紀のヨーロッパの芸術は一般的に君主や大貴族、地方行政府、教会などがパトロンとなり、芸術家を召し抱えたり、作品を依頼するという形で支えられていました。この構図は音楽にも当てはまります。有力な貴族や君主、また大きな教会は、競うように優れた音楽家を召し抱えました。同じパトロンでも、君侯と教会ではやや性質が違います。音楽家の立場からすれば、たいていどちらの場合でも案外安い給料でコキ使われるという点は共通のようですが、そこで行うべき音楽のスタイルが少し違いました。教会に仕える音楽家は、おもに典礼音楽をつくり、演奏します。君侯に仕える音楽家は、おもに宮廷の行事や娯楽のための音楽を作り、演奏したりしました。この区別はかならずしも厳密なものではなく、教会音楽家がマドリガーレ集を出したり、宮廷音楽家が礼拝曲集をだしたりすることもありました。なにせ、教会の元締めであるはずのローマ教会こそが、異教文化の象徴である古代の彫刻の最大のコレクターだった時代のことですから、まあ何でもありというところです。

16世紀のヨーロッパ音楽といえば、なんといってもフランドル風の精緻なポリフォニー音楽が思い出されます。16世紀初頭には、この作風の大家ジョスカン・デ・プレが活躍します。ジョスカンは直接スペインへ行ったことはありませんでしたが、彼の作品はスペインでもおおいに愛され、研究されましたので、大きな影響がありました。16世紀が進むにつれ、イタリアではフランドル音楽の構築美にくわえて、イタリア風の流れるようなメロディーや、詩情あふれる音楽にかわってゆきます。作風に変遷があっても、フランドル風ポリフォニー音楽は、理論的によく整っていること、作曲するのが難しいことなどから高級芸術音楽と考えられいました。いわばハイソな音楽というところです。

レコンキスタの時代からローマ教会に忠誠を誓ってきたスペインですから、正統派のポリフォニーによる教会音楽が盛んに作られ、演奏されていました。16世紀前半のおもな教会音楽家といえば、アンチエータ、モラレス、そして今回のコンサートでもとりあえげるペニャローサなどです。モラレスのように、イタリアで活躍した人たちがいましたから、イタリア音楽の影響を受ける作曲家も多くいました。南イタリア全域とシチリア島がスペインの支配下にあったこと、またスペイン生まれの有力なカトリック教団イエズス会の本部がローマにあったことから、スペインの学生、聖職者、教会音楽家が数多くイタリアで活躍したのです。今回のコンサートでもとりあげるビクトリアは、スペインのルネサンス音楽の代表格であるばかりでなく、イタリアで活躍し、イタリア音楽を直に学んだ音楽家でした。彼の師匠は有名なパレストリーナ。フランドル風のポリフォニーをもとに、イタリア風の流れるようなメロディーや豊かな和音の響きをくわえて、端正でいて華やかな作風を確立した巨匠です。ビクトリアはパレストリーナの作風を学び、豊かな響きの中に宗教的な敬虔さ、厳しさをこめたスタイルを確立しました。

フランドル系のポリフォニー音楽がハイソだとすると、ダンス音楽やその関連分野は娯楽的音楽と考えられていました。娯楽ですから、広く愛好されたにしても、その評価は1ランク下だったといっていいでしょう。実際、複雑に入り組んだポリフォニーを書くよりは簡単に、場合によっては即興ですら作曲できました。ようするに楽しければよいのですから。ダンス系音楽は各地に点在していましたが、16世紀に大きな影響力をもったのはスペイン音楽でした。繰り返し句(リフレイン)つきのダンス音楽は、その詩の形式からビリャンシーコと呼ばれました。ギターの伴奏などで軽快に歌うものです。ビリャンシーコとは百姓小唄というぐらいの意味なのですが、必ずしも民衆音楽というわけではなかったようです。最初はメロディーもリズムも単純なものだったのが、次第にイタリアのマドリガーレの影響を受け、ポリフォニー風に書かれるようになりました。

ビリャンシーコの演奏でもよく用いられたギターは、今も昔もスペインの名物です。16世紀には4コース(同じ音に合わせた絃が2本ペアで、合計8本はられている)と、5コース(同じく10本)のギターがありました。どちらも今日のギターよりも小さいものでした。共鳴孔には精巧な細工をこらしたローズという飾りがつけられています。さて、スペインではこのうち5コースのギターが広く用いられました。この型は、後のバロック・ギターに発展してゆくことになり、いわばギターの本流といっていいでしょう。スペインやスペイン支配下のナポリでは、貴族の令嬢がギターやリュートを習うのが一つの習慣でした。それにしたがい、多くのギター曲やギター伴奏による歌曲が作られました。16世紀終りから17世紀にかけて活躍したナポリ出身のアドリアーナ・バシーレは、自らギターで伴奏してイタリア語の歌とスペイン語の歌を300曲以上マスターしていたといいます。その能力の高さにも驚きますが、それだけ豊かなレパートリーが当時のナポリにあったことにも注目すべきことでしょう。スペイン支配下のナポリでは、イタリア音楽の叙情性とスペイン音楽のテクニックが結びつき、新しい音楽が生まれていました。後に北イタリアの音楽と結びつき、今日のオペラの原形を生み出すことになります。

政治・宗教の面で、スペインは16世紀ヨーロッパの覇権をにぎりました。そして音楽でも重要な位置を占めていました。スペイン本土だけでなく、イタリアで、またアメリカ大陸で、スペイン音楽はおおいに栄えました。中南米のカトリック教会では、本土ではルネサンス音楽がすたれてしまった17世紀・18世紀になっても、一部では演奏され続けたそうです。

[1998年7月、2001年9月再掲載]


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