主宰者(指揮者)ご挨拶


12月30日、午前11時に「東響コーラス」の本番で池袋の東京芸術劇場に行った私は、団員の皆さんの話で朝比奈隆氏の訃報を知りました。団員の中には直接朝比奈氏の指揮で歌った経験を持つ人もいて、この年の瀬の悲報をそれぞれに受け止めていたようです。私は故人その人にはもちろんのこと、不勉強でその音楽に親しく接したこともありませんが、日本音楽界の最長老の死には少なからぬ衝撃を受けました。

朝比奈氏の存在を特に意識したのは、1996年に朝日新聞紙上に掲載された「朝比奈隆の世界」という記事でした。ご承知のとおり、私は一般の大学で日本文学を専攻しました。そして現在も高校生に国語を教えることで日々の糧を得ているわけですが、20歳から30歳にかけて「自分が音楽を専攻した人間ではない」こと、ひいては自分がいわゆる「プロの音楽家ではない」ことに対する絶望的なまでの劣等感を感じていた時期があります(特に「ピアノがうまく弾けない」ことと「語学が不得意」ゆえのコンプレックスは、現在でも全く払拭できていません)。コンプレックスは一生かけて少しずつ向上することでしか解決できないものでしょうが、ともかくも私は焦り、愚痴めいたことを団員にこぼしては慰められていたものです(世間と立場が逆です。こういったことからも、私は団員に頭が上がりません)。そんな時期、この朝比奈氏の記事を目にしたのです。

氏が本格的に音楽を勉強したのは25歳の時で、指揮活動は40歳からなのだということです。出身大学は京都大学法学部で、就職するも2年で退職し、同じく京大の哲学科に入り直した。そのあとで改めて音楽への道を進まれたのですから、常人には真似のできない意志の力です。70歳になった頃、「音楽学校に入らないで良かった」と思った。その理由は、「知識に穴やムラはあるかもしれないが、音楽の世界以外の人間的接触が大切だから。指揮者はプレーヤーと仲間にならないと、いい仕事ができないんです。『この人のためにやろう』と思わせないとね」。そして「われわれの仕事は一種の芸事で、理論や方法より年数なんですね」。恩師から言われた言葉が「人より長く生きて、一回でも多く舞台に出なさい」。徹底した姿勢、とはこうしたことを言うのでしょう。

未熟な私は「音楽学校に入らないでよかった」とは決して思っていませんし、経験の少なさを補うためにも、いやむしろそれ以外の積極的理由から、学術的知識や理論が非常に大切だと考えています(古楽を生業とする者の宿命かもしれません)。それはこれからもそうでしょう。しかし彼が若いときから一貫して音楽の道を突き進んだのではないこと、そして特に「指揮者はプレーヤーと仲間にならないと、いい仕事ができない」という言葉は、私の脳裏に強烈な印象を残しました。私がスコラ・カントールムを創設した理由、指揮者であることにこだわり続ける理由はこのホームページの別のところに掲載されていますので重複を避けますが、そうした私はこの朝比奈氏の姿勢に心からの共感を覚えたわけです。今あるスコラ・カントールムの形は10年以上という、それなりの年月をかけて造り上げられてきたものです。指揮者と団員が常に同一の目線で、言いたいことを腹蔵なく言い合える、という形を大切にしたいと思います。そして一回でも多く、惰性に陥らない、新鮮な演奏会を続けていきたいと考えています。そういった意味で、氏の存在はいつでも私の手本であり、目標であったわけです。

何事にも初めがあり、終わりがある。人の生き死にも全く同様で、それは人間が左右することはできません。私たちはそのことを昨年2月の椋本浩子さんの夭折によって改めて悟らされたのですが、今回の朝比奈氏の逝去も、とうとう来るべきものが来てしまった、遅咲きの花を満開に咲かせた頑健な体力もついに加齢にはかなわなかった、との実感を強くします。私は今年年男、一般的に考えれば人生の折り返し地点に来たわけです。焦りが募らないといえば嘘になりますが、今までと同様、少しずつでも進歩できるように小さな努力を積み重ねていきたいものだと思います。そして、いつ人生の幕が降ろされようとも悔いのない状態に自分を保っていきたい、できれば長生きして、朝比奈氏のような徹底した愚直さの境地に足を踏み入れてみたいとも思います。故人のご冥福を祈り、またこの新しい年が皆様にとって良い年になるよう、お祈りいたします。

本年もスコラ・カントールムとこのホームページをよろしくお願い申し上げます。


2002年1月1日
スコラ・カントールム代表
野中  裕


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