主宰者(指揮者)ご挨拶


またまたホームページ更新の間隔があいてしまいました。皆様にはただお詫び申し上げるのみです。前回のご挨拶が2月2日でしたので、1ヶ月以上の時間が過ぎたことになります。その間、私の周辺では様々なことが慌ただしく過ぎていきました。過ぎ去ってしまえばほっとした思いだけが残るのですが、その最中はつらいものです。私がこの1ヶ月間行っていた仕事というのは大きな流れ、あるいは歯車に巻き込まれて回転しているようなものでした。そうした事態の中に自分を置いていると、時間というものはあまりにも無情に費やされていくような気がしてなりませんでした。こんなはずではない、もっとやるべきことはあるはずだ、と思いながらも気がついてみると、あっという間に一週間が過ぎています。ただ、それゆえに週末のスコラ・カントールムの練習は私にとって、普段にも増して貴重な場となりました。

この他にも、貴重な経験は数多くありました。その中でも特筆すべきは2月中旬に行われた、ウィリアム・クリスティー氏率いるレザール・フロリサンの演奏会です。スコラ・カントールムが昨年夏にクリスティ氏の公開レッスンを受講したことはすでにご存知と思います。その時の受講曲のひとつ、ヘンデル「メサイア」のハレルヤ・コーラスで、彼は「それではテンポが速すぎる。それではあまりにも『古楽』だ」と評し、堂々としたテンポで演奏することを求めました。今回の来日公演における私の興味のひとつは、実際にクリスティ氏はどのような「ハレルヤ」を聴かせてくれるのか、ということにありました。おそらく、古楽団体としては大きな編成のオーケストラと合唱団を駆使して、偉大な構築物としての「ハレルヤ」を作り上げるのではないかと想像していました。

ところがそうではなさそうだ、ということは、冒頭のシンフォニーから明らかになりました。クリスティ氏の音楽作りは、誤解を恐れず一言で言えばオペラのそれでした。ヒロ・クロサキ氏をコンサートマスターに置いたオーケストラも、身振りの大きい、やや前のめりになっていくような、熱気を全面に押し出した音で指揮者に応えます。合唱も同じ。多少のアンサンブルの乱れは気にせずに突き進みます。ソリストは、女性とカウンターテノールはいずれもチャーミングな歌い回し、男性はかなり力の入った、よく響く声で聖書の言葉を歌い上げます。それはまさに「歌」であり、最近重視されている「語り」の要素よりは、ヘンデルの作り上げた音楽そのものを優先しているようでした。

そして「ハレルヤ」では、私の全く予想しなかったことが起きました。テンポは私たちの演奏よりも速いくらい。音楽は最初から興奮を抑えきれず、ほとんどフォルテを保ったまま昂揚を重ねます。最後の「ハレルヤ」の連呼のところ、ここは熱気が勝ってテンポが走りがちとなるところです。指揮者として、私であれば、様式感を守り、また音楽に破綻をきたさないためにも、テンポの加速を抑えにかかります。ところがあろうことか、クリスティ氏はここで猛烈なアッチェレランドを掛けたのです! 拍は「ハレルヤ」の「ル」を示すのみ。まるでフルトヴェングラーが、バイロイト音楽祭で演奏したベートーヴェンの「第九」のフィナーレのような、圧倒的なアッチェレランドです。彼は昨夏、スコラ・カントールムの規模を考え、また音楽作りがこじんまりとまとまりがちな傾向を見抜いてあのようなアドヴァイスをしてくれたのでしょう。実際の演奏で彼が示したものは、様式感や一般的な定石を乗り越えた、「たった今そこに生まれ出た」音楽でした。

数日後に行われた、パーセルとラモーのオペラ(抜粋、演奏会形式)では、この美点がさらに発揮されました。歌手がみなオペラ向きの特質を持っていたことも幸いしましたが、合唱団の充実ぶりは「メサイア」の時以上で、アンサンブルの緻密さを堪能しました。クリスティ氏の持ち味は、やはりオペラにあったのだなあ、と痛感させられました。同時に、自分たちの演奏においてここ数年来問題となっている「よくまとまってはいるが、そこを突き出てくるものが足りない」ということへの答えを、そこに見たような気がしました。

私は、この経験で急に態度を変えようと思いません。しかし、今までなかった新たな魅力をスコラ・カントールムに付け加えるヒントを得たような気がするのです。演奏会まで残された時間はわずかですが、「たった今生まれた音楽」を作り出すため、最後まで研究と練習を重ねます。3月21日に皆様とお会いできるのを楽しみにしております。それでは、当ホームページをごゆっくりお楽しみください。


2003年3月8日
スコラ・カントールム代表
野中  裕


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