主宰者(指揮者)ご挨拶


暑い日が続きますが、皆様お変わりなくお過ごしでしょうか。私の勤める学校では、夏休みも終盤に差し掛かりました。生徒たちは、3年生は受験に向けて頭に汗をかき、2年生・1年生は9月に行われる文化祭の準備を進めています。とはいうものの、何事も計画通りにはいかないようで、彼らは彼らなりの苦労を味わっています。若者はこうした経験から多くを学ぶのでしょう。かく申す私は、夏の間にやるべきことの十分の一も終わらないうちに、時間が残酷に過ぎ去ってしまったという実感があります。若い人たちはすべてが人生の糧となりますが、私はどうなのでしょう。私があと何年生きられるのかなど誰にもわからないことですが、日本人の平均寿命からすると、ちょうど折り返し地点を過ぎたところになります。残された人生でどれだけのことができるか、焦るのにはまだ早いのでしょうか。

歌ってみたい曲、奏でてみたい曲、読んでみたい本がたくさんあるのに手が出ない、というのは大きな悲しみで、そんな気分が上のような文を書かせてしまったのかもしれません。しかし人生の中では、偶然に思いもかけなかった名曲に出会ったり、ふとしたきっかけから新たなジャンルに興味関心をかき立てられることもあります。そうした喜びがあるから、自分の小ささを実感しながらも、この世に生まれたことを感謝する気にもなります。この夏、私は京都で行われた「世界合唱シンポジウム」において、名指揮者フリーダー・ベルニウス氏の指揮によるクロージング・コンサートに出演する機会を得ました。これは私にとって大変貴重な経験となりましたが、そのことはまた後に詳しく書きたいと思います。そしてもうひとつ、何度も同じことを繰り返して恐縮ですが、今年出会うことのできたオブレヒトの「ミサ・カプト」という曲は、私にとって青天の霹靂、啓示のように現れた名曲でした。

さてその「カプト」という名前の由来ですが、これはイギリスのソールズベリー大聖堂で歌われた聖歌(アンティフォナ)、"Venit ad Petrum" 「ペテロのもとに来て」に基づいています。キリスト教(カトリック)の典礼聖歌がローマの方式に統一されていく、つまりグレゴリオ聖歌の成立以前には、ヨーロッパ各地に、その地方独特の聖歌が存在しました。「ペテロのもとに来て」 はヨハネ伝13章第6・8・9節の内容を抜粋したもので、いわゆるイエスの洗足を取り上げています。この部分の最後で、ペテロがイエスに対して「主よ、足だけでなく、手も、頭も。」と語るのですが、「頭(カプト)」という語(=caput)に、"a" の母音による長大なメリスマがつけられるのです。音符数がなんと101にも及ぶ異例の長さで、まさに華麗の一言に尽きます。この見事な「カプトのメリスマ」が、その後、イギリスのみならず、大陸でもポリフォニー作品の基礎、つまり定旋律として用いられるようになりました。

後は、金澤正剛先生の著書『キリスト教音楽の歴史』から引用致します。「(カプトの)旋律をもとに、無名のイングランドの作曲家がミサ曲を書いた。ただしその曲は当時のイングランドの慣習に従って、ミサ冒頭のキリエは聖歌のまま歌うことを前提としたため、二曲目のグローリアから始まる、四つの通常文から成るミサ曲であった。ところがこの曲が当時北フランスで活躍中のギョーム・デュファイの目にとまった。デュファイはこの作品を、大陸の習慣に合わせて歌うことが出来るようにと、冒頭にキリエを書き加えた。そのため、この作品は一時その全体がデュファイの作品であるとして知られるようにまでなった。そしてその作品を見習ってそれぞれの《ミサ・カプト》を作曲したのが、次の世代を代表するヨハンネス・オケゲムとヤコブ・オブレヒトであった」。

ちなみに、この「カプトのメリスマ」が「ペテロのもとに来て」の一部分であるということは、長い間知られていませんでした。研究者アルフレッド・ブコフツァーがその事実を突き止めたのは、今からたった半世紀前の、1950年のことだったのです。蛇足ですが、今回の演奏会のチラシにデザインされている楽譜は、「カプトのメリスマ」を現代譜に直したものです。


2005年8月17日
スコラ・カントールム代表
野中  裕


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