主宰者(指揮者)ご挨拶


この原稿を書いている今、東京は一面の雪景色です。未明から降り続く雪は、未だに止む気配がありません。寒さを押して外に出てみると、予想通りかなりの積雪量です。今日は大学入試センター試験の初日、今のところ交通機関の遅れも少なく、大きなトラブルもないまま試験が進められている、というニュースの声がしてきます。私の教えている生徒たちも、今日はこの寒さの中一所懸命に問題に取り組んでいることでしょう。そんなことを思っているうち、すでに20年前のことになった自分の高校時代の記憶が、次から次へと脳裏に甦ってきました。

私が初めて指揮棒を持ったのは、高校1年生の時、音楽の時間です。中学生の時にバッハの洗礼を浴びた私は、どうしても自分で楽器を演奏してみたいという欲望に取り憑かれ、親に頼み込んでピアノを買ってもらいました。ピアノの売買契約の時にやってきた調律師の方は、もちろん小さな子どもがピアノの手ほどきを受けるために購入したと思ったのでしょう。私の家にそんな者がいないのを見て「ところで、これはどなたがお弾きになるのですか?」と本当に不思議そうな顔をされ、私だと知ってさらに驚きと困惑の混じった表情を浮かべたのを、今でも昨日のように思い出すことができます。そしてその勢いで、学校でも授業の合奏の指揮者に立候補してしまったのです。もちろん小学校の頃から歌うことやリコーダーを吹くことは大好きだったのですが、私の通っていた高校は系列に著名な音楽大学を持っていることもあり、音楽の専門教育を受けている子たちも多く、私などが人の前に立つのは笑止千万な話だったと思います。しかし指揮者定員の2人には、私ともうひとり、ちょうど2人しか希望がありません。私の棒振り人生は、こうして自分でもよくわからないうちにスタートしたのでした。

ところが、授業でどんな曲を演奏したのか、どんなふうに振っていたのか、仕上がりはどうだったのか、ということは一向に思い出せないのです。普通高校の1年生の選択芸術ですから、「拍だけ振っていればいいんだ」という程度に軽く考えていたのではないでしょうか。今から考えると恐ろしい限りですが、本人としてはイヤな思い出がないのですから、結構得々として格好だけはつけていたのでしょう。この授業は1年間で完結し、周囲と同じように大学進学を考えていた私は、もう高校で音楽を学ぶことはありませんでした。初めての指揮に関する記憶がないというのは、私がその頃、将来にわたって、指揮者として音楽と本格的に関わり続けるなどということを微塵も予想していなかったことを、端的に示しているような気がします。

これ以外のことは、よく覚えているのです。宿泊行事の時、宿舎でバッハのオルガン曲のカセットテープをかけて顰蹙を買ったこと、レコードに微細な傷を付けてしまって、(今だったら気にならないのに、当時は潔癖性だったのか)泣く泣く買い直したこと、その傷の付いたレコードを学校が引き取ってくださるということになり、音楽の先生が「パッサカリア(バッハのオルガン曲BWV582)が入っているのが是非欲しいんだ!」ととても嬉しそうな顔をされたことなど。どうしてこんな断片的な風景ばかり思い起こされるのでしょうか。

そして、高校時代一番印象に残っているのは、不思議なことに、高校三年の時に受けた模擬試験なのです。12月の本当によく晴れた日曜日、私は自転車である予備校の模擬試験を受けに行きました。朝9時から夕方4時くらいまでの長い試験が終わって、体も疲れましたが、もっと疲れたのは心の方でした。惨憺たる出来であったことはわかりきっていました。うなだれた私は自転車置き場に重い足を運んだのですが、その時私を迎えてくれたのは、今までに見たこともない、鮮やかで微妙な陰影に富む夕焼けでした。そのあまりの美しさに息をのんだ私は、しばらく茫然と空を見つめて佇んでいました。あれももう、20年も前のことになったのです。そして、年が明けた1月に行われた共通一次試験(大学入試センター試験の前身です)は、前日に降り積もった雪が、緊張した私たちを迎えてくれたのでした。今日、私は外の雪を見ながら、こんなとりとめもない感慨にひたっています。


2006年1月21日
スコラ・カントールム代表
野中  裕


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