定期演奏会まであと3日、本日は最後のリハーサルが行われます。準備は万端整い、あとは本番を待つばかり、というわけですが、私は1年間も付き合ってきた楽譜とのにらめっこ状態が最後まで続きます。どんな楽譜でもそうですが、演奏会直前になってやっと気が付く音型の類似点、フレーズの特徴、歌詞と音楽の結びつきなど、いくらでも出てくるものなのです。「しまった、もう少し早く気づいていれば・・・」「あともう1週間時間があったら・・・」という思いを引きずりながら本番を迎えます。これは、特に指揮者という立場に立つ者が一生味わう気持ちなのでしょう。しかし無常にも時間は限られている、その限られた時間で精一杯の努力をするしかない、という諦念、そう言って悪ければ落ち着きのようなものが必要になってくるのがこの時期です。
合唱団の一員として歌うときの自分は、少し違います。ある程度自分の納得いく準備が出来たときというのは、「今まで培ってきたものをすべて出せばよい、実力以上の背伸びをする必要もない。ろくでもないミスや、明らかな表現不足の演奏をするはずは、今の自分にはないのだ。そして、演奏する、表現するという行為を思い切り楽しもう」という気持ちになります。それは、決して「自分の存在を目立たせる」という意味ではありません。合唱の醍醐味というのは、時には他のパートを立て、時には陰に隠れ、お互いがお互いの声を聴き合いながら全体の中に自分を埋没させていく作業の中にあると思います。実際、私は5人のテノールの声が本当にひとつのパートの声にまとまったとしか思えない奇跡的な瞬間を体験したことがあるのです。
音楽というのは単にうまく響くことだけを目指すものではありません。しかしこうした「肉体でとらえた至福の瞬間」は、実際に自分の声で勝負した者だけが味わえる甘露でありましょう。指揮者は空間に図形を描きながら、その至福の瞬間が訪れることを祈って必死に奮闘します。ところが、念願かなったとしてもその至福の輪の中に自分が入ることは許されません。そして、団員たちの声を聴きながら「しまった、もう少し早く気づいていれば・・・」「あともう1週間時間があったら・・・」を繰り返すのです。因果な商売と言えば、これほど因果な商売もありません。私が合唱指揮者に専念せず、いつでも自分が合唱団員として歌う場を確保しているのはそのためです。
でも、合唱指揮者にも至福の瞬間はあるのです。私の表現意図と団員の表現意欲がぴたりと重なり合って、自分の予期したとおりの音が発せられたときの喜びはもちろんです。しかしそれ以上に、私の意図を超えて、団員が思わぬ積極性を持って音楽的に攻めてきた時、私は防戦したり、あるいはさらにそれを煽ったりしながら、合唱団との一体感を味わうことが出来ます。そしてそれが観客席にまで伝わったとき、聴いてくださる方の興奮が背中から感じ取れるのです。これも言葉では説明できない、ひとつの奇跡と言ってよいでしょう。
今回の演奏会で、こうした思いが味わえるかどうか。狙って出来るものではありませんから、指揮者は本番直前まで「しまった、もう少し・・・」を続けます。そしてそうする限り、この1年間の団員の姿を見てきた者としては、また今回も期待できるのではないかと思うのです。どうか明後日、皆さんとともにこの至福の瞬間が味わえますように。