主宰者(指揮者)ご挨拶


前回に引き続き、秋に行われた2週連続の演奏会について申し述べることに致します。

「北とぴあ」の演奏会では、休憩後に、ジョスカン・デ・プレの「ミサ・パンジェ・リングァ」を全曲通してお聴きいただきました。パロディの原曲となったグレゴリオ聖歌「舌よ、讃えよ」の第1節を含んで、その全容を一挙に紹介したわけです。私たちはこの曲を、1998年8月の「第8回定期演奏会」と、同年10月の「栃木[蔵の街]音楽祭・招待演奏会」で演奏したことがあります。その時も休憩後の後半で全曲を通したのですが、今回と違っていた点がいくつかあります。

まず、後半に登場するデュエットについて。このミサ曲では、「プレニ・スント」と「第2アニュス・デイ」がソプラノとアルトのデュエットになっています。9年前は両パート2人ずつのアンサンブルとして演奏したのですが、今回は両パートの全員が歌いました。実は今回も「2回演奏するなら、どちらかの本番は目先を変えるためにアンサンブルで行こうか」などと思ったこともあったのですが、最終的には合唱で通してしまいました。これは何故か。いささか傲慢の誹りを免れないことを覚悟で申し上げますと、9年前に比べて合唱団としての精度が上がっていると判断したからです。今回の人数はソプラノが6名(東松山は5名)、アルトは9名(同8名)で、お互いを繊細に聴き合う、という点では理想よりもかなり多い人数だと言わざるを得ません。しかし練習を重ねていくうちに、このデュエットに対する女声団員たちの取り組みが非常に熱心で、その研鑽の結果も満足いくものになるであろうという確信が生まれたのです。「上手な団員数人と、それに追随するだけの多数団員」という構図が出来てしまっている合唱団では絶対にできないだろうこと、これを本番の舞台上で実現してみようという気になったわけです。実際の響きがどうであったかは皆様のご判断に待つより仕方ありませんが、録音を聴いた限りでは、私は率直に団員の努力を讃えたいと思います。

もうひとつは、曲間での音取りについてです。前回は、最初に聖歌の音取りをした後、一切音を取り直さずに最後まで演奏しました。今回は、先唱(「グローリア」と「クレド」の冒頭部分。実際の典礼でも、歌い出しの音を与えるために独唱者が歌う)を除いては、すべてピッチパイプで音を取り直しました。

この曲は、「舌よ、讃えよ」のフレーズをミサ通常文5章のすべてに用いた「循環ミサ曲」です。いわば、「舌よ、讃えよ」による変奏曲といっても良いでしょう。昔の私は、「ゴルトベルク変奏曲」の間にフレスコバルディのトッカータが挟めるか? というような気でいたのです。たとえ実際の典礼では間に説教が入ったり、他の曲が挟まったりするとしても、現在、典礼の場を離れて、演奏会で演奏する「一つの音楽『作品』」としてこの曲を眺めた時、余計な夾雑物が入ることにどうしても強い抵抗を感じざるを得なかったのです。ちょうど「典礼に基づいて説教や単旋律聖歌も含んだミサのCD」だとか、「ミサの5章をバラバラにして、その間に他のモテトゥスを挟み込んだ演奏会」(今回、私たちが東松山の演奏会で行った方法です)が増えていた頃でしたが、私はどうしてもそれに追随する気にはなれませんでした。曲間での音の取り直しすら、全体を貫く緊張を削ぐものとして拒絶したかったのです。(正直を申しますと、当時、演奏会のアンケートで「ピッチパイプを使うことに違和感がある」とのご指摘を受けたり、ある合唱関係の本に「ミサ曲の一部分だけ演奏するなど犯罪に等しい。交響曲のある楽章をカットすることが許されないのと同じ事だ」とか「ピアノを使って無伴奏曲の音取りをするなど言語道断」のようなことが書かれていて、音取りの方法やタイミングについて、不必要なほど思い悩んでいたことも大きな理由です)。

そんな私が、どうして今回は曲間での音取りを許し、東松山では過去に自分の否定していた方法を採ったのか。これは私の理念が変わったというより、実践がものを言った、という方が適切でしょう。前回の演奏を否定するつもりはないのですが、音を取り直さないことで生まれる音程への不安感は、莫大なリスクであると思い知らされました。確かに、一旦演奏が始まったら終わるまで、人間の声で歌われる楽曲以外に一切の音が鳴らない、という環境が出来れば、その緊迫感と演奏効果は比類のないものになるでしょう。しかし、30分間にわたって、一切の伴奏なしに、合唱団の全員が常に一定の音程を保って歌うなどという離れ業は、私たちにとって(というより一般的に合唱団としては)大それた望みだと気付かされました。9年前の演奏は、困難極まる大事をし終えた征服感を与えてくれたことは事実です。しかし結果として、団員の間に「音程が定まらない不完全燃焼感」を与えてしまったこと、さらに、定まらない音程を「聴く」側への配慮が足らなかったことは、率直に認めなければなりますまい。そんなところから、私の考え方は少しずつ変わっていったのです。次回、もう少しこのあたりのお話を続けさせていただきたいと思います。


2007年11月13日
スコラ・カントールム代表
野中  裕


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