主宰者(指揮者)ご挨拶


11月7日から3回にわたって、秋の演奏会でのミサ曲の扱いに関する愚考を申し述べております。本日で最後となりますので、もう少々おつき合いください。

極めて実践的な理由から、私がミサ各章での「音の取り直し」をしてもよいのではないかと思い始めたことは前回書きました。そうなると、「ミサ曲」に対する考え方も多少柔軟になってまいります。「ミサ通常文」という5つの部分からなるドラマを緊迫感を持って描き出す、という手段としては、必要に応じてバラバラに演奏したってよい、むしろその方がより良い方法となる場合がある、と考えるようになったのです。そのきっかけになったのはこれも実践上の要求、第5回特別演奏会で取り上げたオブレヒトの「ミサ・カプト」でした。

この曲は「ミサ・パンジェ・リングァ」と同じく循環ミサ曲の形式で書かれていますが、演奏時間が極めて長いことに加え、ソプラノの音域の広さ、各章間の性格の違い(通模倣に近いのか、定旋律書法なのか、など)もあって、これをいっぺんに通したのではとても演奏者の集中力も体力も持たない、と直感したのです。それは聴く方にとっても同じことです。CDのように、自宅で好きな部分を好きな音量で聴くのならともかく、いつ果てるとも知らぬ(しかも内容は充実している!)音楽を5つ、立て続けに聴かされるというのは、精神的に厳しいと思いました。しかも実際に典礼でこの曲が歌われた際には、キリエとグローリア以外、すべて切り離されたことは間違いないのです。ここで「ミサとしての統一感」という理念を楯に、全5章を続けて演奏するのは、無謀以外の何者でもない。そんなわけで、「ミサ・カプト」は当団初の「バラバラ演奏」の実例となりました。

私は、例えばバッハの「ミサ曲ロ短調」をバラバラにして演奏してもよいかどうか、などという極端な議論は致しません(バッハ学者のフリードリヒ・スメントが半世紀前にこのような学説を出したとき、皆が驚き、そしてしばらくして反発しました)。結局の所、個々のミサ曲が持つ性格、演奏される機会に応じて、自由に柔軟に対処していくのがよいだろう、と思い至ったのです。そんな考え方で今回の「ミサ・パンジェ・リングァ」を捉え直したとき、東松山ではバラバラ、北とぴあでは連続、という二つの切り口が現れました。二つの切り口が共に有効に働くという事実が、この曲が名作たることを自ら証明しているような気がしてなりません。

しかし、どんな切り方をしようとこの曲が名曲であると同時に難曲でもあることは間違いありませんから、演奏曲数を少し抑えめに設定しました。今回は、当団としては珍しく(?)終演が早い演奏会だったと思うのですが、それでも団員の疲労を考えるとちょうど良かったかな、という感じなのです。なお、東松山では「バラバラ」のコンセプト上、曲数を更に減らしたため、前半ステージが短くなりすぎてしまいました。お聴きいただいた皆様にあっけない感じを与えてしまったようで、まことに申し訳なく思います。今後の糧とさせていただきますので、どうかご海容の程をお願い申し上げます。

何やら昔話を持ち出しながら、取り留めもなく書き散らしてしまいました。昔話ついでに、個人的な思い出を述べることをお許しください。今回お世話になった東松山「折々の会」のサロンコンサートには長い歴史があり、前身の「四季の会」から数えればもう20年以上になります。私は18年前、この「四季の会」の第16回、「無伴奏合唱の魅力」というコンサートに、コレギウム・ヴォカーレ東京の合唱団員として参加させていただいたのです。今回このお話をお引き受けするにあたり、当時のことが走馬燈のように頭によみがえってきました。この合唱団は解散してから久しく、ここで知り合ってスコラ・カントールムにも参加していただいた椋本浩子さんは、すでにこの世の人ではありません。古い、様々な記憶のイメージを辿りながら演奏会の準備を進めたわけなのですが、20年近くを経た今回も、あの時と同じアット・ホームな、暖かい雰囲気は健在でした。ホストの横田様のご尽力の賜物と存じます。また「北とぴあ」のほうは、1995年、第1回目の音楽祭に、エントランスホールでの「フリーステージ」に出演した経験があるのです(「当団のあゆみ」参照)。そして今回、私は久々にスコラ・カントールムの団員として、皆と一緒に歌いました。第2回定期演奏会以来、14年半ぶりのことです。結構長いこと音楽を続けてきているのだな、という実感と、様々な縁の不思議さ、ご支援くださる皆様のありがたさを思わずにはいられません。


2007年11月21日
スコラ・カントールム代表
野中  裕


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