あけましておめでとうございます。皆様は2008年をどのようにお迎えでしょうか。今年はスコラ・カントールム設立から数えて19年目にあたります。創設以来20年の節目が本当に目前に迫ってきたわけで、新しい年の到来に重ね合わせていささか感慨深いものがあります。感慨深いついでに、今年最初のご挨拶を個人的な思い出で汚すことをお許しいただきたいと存じます。
20年前、つまり1988年に私は「早稲田大学・日本女子大学室内合唱団」の学生指揮者を務めておりました。以前書きましたように、私が初めて人前で指揮棒を振ったのは高校1年生、音楽の授業の時でした。しかし、練習の組み立てを自分で考え、実際にお客様をお迎えして演奏会を開くといった責任ある立場になったのは、この時が最初です。残してある当時の資料を見ると、そこには「若気の至り」としか名付けられない理想論があったり、自分の熱意の押し売りとしか考えられない練習内容があって、実に恥ずかしくなります。どうも私は当時から「アマチュアはまず正しい音程が取れないと次に進めない」と考えていたようで、コールユーブンゲンか何かを抜粋して、曲練習の前に皆で歌っていました。自分が音程に甘いのは棚に上げてこんなことをやっていたのですから、私をいけ好かない奴だと思っていた人はたくさんいたことでしょう。ただ、基本練習と称してバッハのコラールを歌っていたのは、「合唱を初めて経験する者」にとっては良い企画だったかもしれない、と思っています。
バッハの曲というのは、たとえ無機的に音程をとっていったとしても、必ず精妙な和声連結を感じさせる瞬間があるものです。高校生で遅まきながらピアノを弾き始めた私は、インヴェンションの難しさに泣きそうになりながらも、「なぜたった2声でこのように充実した和声を感じるのだろう?」と思っていました。おそらく、これはバッハの狙った意図の一つなのでしょう。3声に進むと三和音が充填されることが多くなり、終結和音は基音と第3音が鳴りますから、さらに和声感覚が明瞭になって参ります。しかし指を動かすことだけに神経をとがらせた愚か者の私は、曲中に現れる和声連結を先生が何度も教えてくださったのにもかかわらず、それを表現しようとすることに消極的でした。指が動かない、途中で間違える、曲が止まってしまうことへの恐れだけが全身を支配し、子供の頃にピアノを習えなかったことへの悔いと恨みだけが頭を占領していたのです。そんな私にも、バッハの意図は伝わってきていたのでしょう。バッハの4声コラールを丁寧に仕上げていけば、合唱団として益するところが大きいというのは、誰に示唆されたわけでもない、私の直感でした。
そんなよちよち歩きの指揮者も、経験だけは重ねて20年となりました。1988年は年号でいうと昭和63年で、昭和天皇の健康状態が大変に悪化していた時期でした。様々な行事が「自粛ムード」の中で中止され、室内合唱団の定期演奏会も「ひょっとしたら・・・」という雰囲気でした。幸いなことに演奏会は無事に行われ、その後の私の人生に大変大きな影響を与えることとなりました。しかし昭和天皇は翌1989年が明けてすぐに崩御となりました。テレビで新しい年号を発表した小渕官房長官は、その後現役の首相のまま急死しました。また、昨年は名ピアニスト羽田健太郎さんの突然の死が私を驚かせました。健康と平和の大切さをしみじみと感じる新春です。どうぞ皆様もお体に注意され、充実した一年を過ごされますよう、年頭に当たって心より祈念致します。