主宰者(指揮者)ご挨拶


日付が11月2日になりました。本日は東京都文京区にある東京カテドラル聖マリア大聖堂で、田崎瑞博さんの指揮による「東京バロック合唱団」の「バッハ/ミサ曲ロ短調」の演奏会が行われます。私も聴衆の一人として、この演奏会に参加して参ります。

この演奏会は、合唱団の常任指揮者を27年間、そしてその母胎となった早稲田大学・日本女子大学室内合唱団の常任指揮者を28年間務めた鈴木仁先生の追悼演奏会です。昨年の演奏会では、指揮に加えてテノール独唱まで披露した鈴木先生の元気なお姿を拝見して、誰もがこの「ロ短調」も先生の指揮で拝聴できると信じて疑わなかったことと思います。しかし先生は今年3月11日に、長年奉職した広島の地で突然お亡くなりになりました。大学時代の4年間「室内合唱団」に所属し、鈴木先生に古楽への関心を広げていただいた私にとって、このあまりにも早い死は大変な驚きでした。1週間後の3月18日には当団の第21回定期演奏会が開かれましたが、その演奏会の間に何度か、私は鈴木先生が舞台の上にあるパイプオルガンのバルコニーにいらっしゃるかのような気がして、胸が詰まる瞬間がありました。

鈴木先生は、大学卒業後に当団をつくって独立した私にも、分け隔てなく接してくださいました。当団の演奏会は長年土曜日の夕刻に行われていたため、東京バロック合唱団の練習と重なっていたのですが、先生は私と顔をあわせるたびに「演奏会に行けなくてすまないね、日曜にできないのかな」とおっしゃっていました。そして近年、演奏会が日曜日のマチネに移ってからは何回か顔を出してくださり、終演後には私を訪ねて握手までしてくださいました。それなのに、先生のご逝去後、私は多忙にかまけ、ご葬儀にも参列できずじまいでした。開催が危ぶまれた「ロ短調」の演奏会が無事行われると知った私は、これは何としても駆けつけなければと思いました。それが大学卒業後、何一つ先生のご恩に報いることのできなかった「不肖の教え子」のできる、唯一のことだからです。

私は鈴木先生のもとで、1988年に「室内合唱団」の学生指揮者を務めました。先生は、学生指揮者に何一つ押しつけがましいことはおっしゃいませんでした。それどころか、私が指導する普段の練習の内容についても、一切口を挟みませんでした。「必要なことは、自分の練習の時に、自分が責任を持って指摘する」という信念をもっておられたのでしょうか。今となってはその真意を伺うこともできなくなってしまいました。そして演奏会にあたっては、後進を育てるという意味もあってのことなのでしょうか、プログラムのかなりの部分を、大胆に学生指揮者に振らせました。私は1988年6月の演奏会では二重合奏・二重合唱による、ヴィヴァルディの「主よ、急ぎわれを助けに来たりたまえ」などを振り、同年11月の定期演奏会では、パレストリーナのミサ「エテルナ・クリスティ・ムネラ」をはじめとする多くの曲を任されたのです。11月の演奏会は明らかに鈴木先生が指揮なさっている時間よりも私が振っている時間の方が長く、ご来場いただいた方のことも考えると、今となっては背筋の寒くなるような構成だったのですが、鈴木先生は「君が振りなさい」「君が振る曲なのだから細かいことは自分で考えなさい」と励まし、最後まで私を「一人の指揮者」として扱ってくださいました。私がその後、当団を設立して指揮者となることができた大きな要因の一つが、鈴木先生との出会いであることは論をまちません。

当団とは直接の関わりのない、個人的な思い出を記してしまい申し訳なく思います。しかし当団のメンバーには私と同じ「室内合唱団」出身の者も多く、また「東京バロック合唱団」にも以前に当団で歌ってくれていた人たちが何人もいるのです。皆が鈴木先生という大きな存在を中心に置いて、今でもそれぞれの道で、それぞれの生き方で、音楽を続けていることに改めて素直な驚きを感じますし、それを大切にしたいと思います。本日の演奏会は、私にとってはある意味「青春の総決算」ともいえるものです。それは「東京バロック合唱団」の団員の皆さんにとっても同じでしょう。きっと、期待に違わない演奏になると思います。今日は日頃の自分をすべて忘れ、四半世紀昔の学生時代に時間を巻き戻しながら、バッハが書き遺した2時間半の至福の世界に身を委ねてこようと思います。


2012年11月2日
スコラ・カントールム代表
野中  裕


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