主宰者(指揮者)ご挨拶


記録的な猛暑だったこの夏も、ようやく終わりを告げるようです。皆様にはお元気でお過ごしのことと思います。私たちも何とか元気に(かく言う私が何度か体調を崩して団員に迷惑をかけましたが)、「マタイ受難曲」の練習を続けております。

練習が始まって4ヶ月が過ぎました。私たちは普段の練習では当然のことながら、合唱部分の練習しか致しません。冒頭と最後に置かれた、独立した大きな合唱曲は別として、後はほとんどがユダヤ人群衆や弟子たちの台詞に作曲した部分、そして単純コラールばかりです。つまり規模のごく小さい曲を、ばらばらに取り扱うざるを得ないわけです。しかし私にとっては(団員ももちろん同じだと思います)、何度繰り返して練習しても、どんなに短い曲でも、バッハの意図と作曲技法上の素晴らしさによって、曲そのものに退屈する瞬間は全くないのです。これは、本当に恐るべきことだと思います。

もちろん「その曲が何を表現しているのか」「歌詞はどんな意味なのか」をわからずに歌っているようでは、「マタイ」の練習は相当しんどいのだろう、と思います。しかし、ドイツ語を母国語として持たない、そして音楽理論を詳しく知らないアマチュアの合唱団員であっても、最低限の聖書の知識と、逐語的な歌詞の対訳があれば、あとはバッハの音楽が驚嘆すべき威力を発揮してくれるのです。ドイツ語をしっかり発音し、音程を合わせ、パートの音色を整えるという基礎作業をきちんと行うことができれば、その瞬間に「歌う者の体に何かが降りてくる」瞬間というのが必ずあります。バッハの音楽は「ミサ曲ロ短調」やモテットの数々に代表されるように、先に書いた「基礎作業」が絶望的なまでに難しいものが多いのですが、「マタイ受難曲」は、実はそれほどではありません。いわゆる「譜読み」は、あっという間に終わってしまいます。その先の「音色の整え方」、つまり「場面にふさわしい音」をいかにして作っていくかが、ある程度の決め手になると申せましょう。たった5秒から30秒ほどの曲のために、団員に忍耐を強いながら、何度も試行錯誤を重ねていく。その過程で得られた「その日のベスト」と言える表現に到達したとき、そこにいる者はすべて、バッハの書いた音楽がいかに力強く受難物語の一コマを描き出しているのかを、理屈抜きで、文字通り「体感」するわけです。

まだまだこうした瞬間を多く味わうことのできていない私たちですが、練習は嘘をつかない、という当たり前のことを思い出して、愚直に取り組んでいこうと思います。そろそろ、福音史家の紡ぎ出す「物語」、つまり聖句レチタティーヴォを理解し、そこから合唱がどんなインスピレーションを得て歌うべきかについても、それを意識した練習に入らなければなりません。登らねばならない山は次々と私たちの目の前に現れてまいりますが、それを克服することは苦しみではなく、バッハの偉大さを感じる喜びに満ちた道程です。10月には演奏会のチラシも出来上がり、チケットの販売も始まります。皆様の御指導御支援、そして何より演奏会当日のご来場を切にお願い申し上げます。


2013年9月10日
スコラ・カントールム代表
野中  裕


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