カール・リヒター=バッハ演奏の規範(カノン)
野中 裕


このエッセイも、バッハ・イヤーに関連して1999年に執筆されました。2001年10月にリヒター最後の来日公演の模様を録音したCDが発売されましたが、彼の晩年、衰えが目立つ時期のものだけに、CDについての世評は厳しいものもあるようです。彼を弁護するわけではないのですが、私をバッハの世界に、そして音楽へと誘ってくれたこの巨匠を偲ぶことも必要と思ったのです。


 1966年生まれの筆者は、カール・リヒターの演奏に身も心も打ちのめされた一番最後の世代に当たる。今から約20年前、バッハと言えばアルヒーフ・レーベルの一連の録音が他を圧して聴かれていた時代、カール・リヒターという名前はバッハ演奏の規範(カノン)であったし、事実その演奏は個性的というより普遍的な要素を多く感じさせる。
 リヒターのバッハ演奏の意義は、世上比較がかまびすしい古楽器とモダン楽器の差異を超越しているところにある。リヒターの成功は、果たしてモダン楽器と(現在から見れば)大規模な合唱団の表出力によるものだったのか。無論、答えは否である。意味のない想像かもしれないが、たとえリヒターが古楽器を使うことを余儀なくされたとしても、彼の演奏スタイルは変化のしようがなかったに違いないし、その演奏水準が古楽器の使用によって左右されるということもあり得なかったはずだ。彼の成功は彼の音楽性に負うものであり、晩年に見せた痛々しい姿もまた、彼の持つエネルギーの消耗にのみその原因を持つ。
 リヒターを代表する名盤といえば、まず誰もが思い浮かべるのはアルヒーフへのデビュー版となった《マタイ受難曲》の旧録音(1958年)であろう。しかし、リヒターの精髄はカンタータにこそ如実に伺うことができる。「四大宗教曲」に比べて規模が小さいだけに、短い時間の中に込められる研ぎ澄まされた集中力と気迫と緊張感が重要な意味を持つ。例えばバッハの若き日の大作《わがうちに憂いは満ちぬ》BWV21(1969年録音)はリヒターの芸術を凝縮した形で実感できる名演である。また音の貧しいノイペルトの使用で批判の声が多いチェンバロ演奏についても、彼の理想とする演奏形態そのものを聴こうとする耳には負担が少ないであろう。《ブランデンブルク協奏曲第5番》BWV1050(1967年録音)の独奏カデンツァや《半音階的幻想曲とフーガ ニ短調》BWV903(1969年録音)の迸るエネルギーの前では、楽器云々という議論がその意義を全く失うことが実感できる。


(追記)冒頭に述べたCDは、TDKオリジナル・コンサート・セレクションと題されたシリーズのもので、ゴルトベルク変奏曲(TDK-OC003)とオルガン曲集(TDK-OC004)の2枚が発売されました。私は2枚とも聴きましたが、ゴルトベルク変奏曲のほうが、痛々しさも含んだリアルな文字通りの「レコード(記録)」としての凄みが伝わってきます。何も事情を知らない人が聴けば、これはミスタッチだらけ(どころか、ほとんどふらふらでテクニック的には下手というのも気が引けるほど)のひどい演奏としか思えないでしょう。しかし、リヒターのすさまじいまでの熱気にあふれた数々の録音を愛聴してきた者にとって、この演奏はかけがえのない遺産です。ひとりの人間の歩んだ凄絶なまでの音楽人生を目の当たりにして、深い感慨を覚えずにおられましょうか。なお、ライナーノートに記された中野振一郎氏と池田卓夫氏の対談が、私にとっては非常に面白かったことを付記しておきます。


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