このエッセイは、2000年のバッハ・イヤーに関連して執筆されたものです。諸般の事情で現在までお蔵入りとなっていましたが、2001年12月に「クリスマス・コンサート」でまたバッハを演奏するにあたってホームページに掲載することに致しました。
バッハの宗教性については、いくつもの論が、何人もの人々によって語られてきた。ここでそのすべてをまとめて紹介することは全く不可能である。この問題について深く知り、考えたい方は是非、そうした専門的な論考をお読みいただきたい。ここで語るのは、中学生の時にバッハの魅力にとりつかれ、以来主に宗教曲を通してバッハの演奏と研究に携わっているひとりの人間の個人的な告白である。
私はキリスト者ではない。何回か、信者の方から「あなたに入信することを勧めます。そうすればもっとバッハの世界が深くわかってきますから。でも、決して無理は申しません。神の恵みはすべての人に平等なのですから」と言われた。バッハ自身が敬虔なドイツ・プロテスタントの信者であったことは間違いがない。しかし、彼が喜怒哀楽を感じる市井の男であり、非常に人間くさい出世戦略や謀略に時間を割いていたこともまた事実である。結局のところ、バッハの信仰がどのようなものであったのかは、バッハ自身にしかわからない。それは時々の地位、生活水準、果てはその日の天気の様子によっても左右される、可変性のあるものだったかもしれない。たかだか数通の書簡の文面をもとに、彼の本質が「第五の福音記者」であったのか「単なるサラリーマンとしての宗教音楽屋」であったのかを考えることは、私にとってはあまり意味を持たない。私にとっては非キリスト者をここまで捉えるバッハの音楽の偉大さのほうが重要である。逆に、バッハから強い宗教的メッセージを受け得ない人、またそれを好き嫌いの範疇で拒絶する人がいたとしたら、その人は本当に不幸だと心から思う。
カール・リヒターは「バッハの本質はあくまで宗教にあり、その音楽は教会の中にとどまるべきである」と言い切った。そして現在日本が誇るバッハ演奏家、鈴木雅明の演奏の根底には彼の信仰がある。私を心から感動させた二人の演奏家は、バッハの音楽の宗教的普遍性を信じて疑わない。やはり、信仰を持つものの生き方と演奏には確固とした強さがある、と痛感する。しかしバッハを真摯に演奏する限り、信者にはもちろん、非キリスト者である私にも神の恵みがある、と信じてはいけないだろうか。先の信者の方の言は、そのまま「あなたにバッハの世界へ入信することを勧めます。そうすればもっと神の世界が深くわかってきますから。でも、決して無理は申しません。神の恵みはすべての人に平等なのですから」と言い換えられるはずなのだ。