最近、小泉吉宏さんのお書きになった「大掴(おおづかみ)源氏物語」という大変に面白い本を買いました。「ブッタとシッタカブッダ」などで知られる有名な漫画家である小泉さんが、紫式部の「源氏物語」を要約し、全五十四帖をおのおの見開き2ページ、8コマの漫画にまとめたものです。古典の授業で何らかの参考になれば、と思って買ったのですが、あまりの面白さにそんな考えはどこかに吹き飛び、夢中になって読み終えてしまいました。大体、光源氏が栗の顔をしていて、本文中では「まろ」と呼ばれている。本の正式題名が「まろ、ん?」というのですから、ふざけるのもここまで来るとかえって潔い。
小泉氏の描く光源氏「まろ」
私は今まで、ダイジェストというものが嫌いでした。結局はいいところを採ってきたに過ぎず、細かいディテールは無視されている。文学にしろ音楽にしろ、「一部分を切り取る」という行為に我慢がならなかったのです。しかし年齢のせいでしょうか、ここに来て「抜粋」とはむしろ創造的な行為ではないかと思うようになったのです。例えば有名なメンゲルベルクの「バッハ/マタイ受難曲」では大胆なほどの大きなカットがあります。これは音楽監督のメンゲルベルクの意図によって行われたもので、彼の「マタイ」解釈をよく示しています。カットは20世紀前半の常套手段ではありましたが、メンゲルベルクの場合は、単にその風潮にのっただけとは考えられません。彼特有の長く豊かなレガート中心のフレージングを生かし、すさまじいまでのテンポの伸縮を効果あらしめるためには、どうしても「マタイ」は長すぎたのです。彼は聖書の受難物語を生かすため、第二部の多くのアリアをカットしました(それに伴って、いくつかの聖書レチタティーヴォもつぎはぎになってしまったのですが)。それはそれで、彼なりの「マタイ」の再創造なのです。これで演奏がひどければただの愚行ですが、「メンゲルベルクのマタイ」は賛否両論をはらみながら、現在でも語り継がれ、聴き継がれています。それは、彼自身の作品に対する読みと演奏の一徹さとが、好むと好まないとにかかわらず人間の心を打つからでしょう。
カール・リヒターはバッハの専門的演奏家として「マタイ」を1曲のカットもなしに演奏しました。しかしヘンデルの「メサイア」(ドイツ語版)では、第3部で相当なカットを行っています。これについてはリヒター自身がコメントを残しており、「劇的緊張感を維持するためには、どうしても第3部のアリアの連続は冗長すぎる。ヘンデル自身、アリアはその時の都合に合わせて適宜変えていたのだから、カットは全く問題にならない」と述べています。ヘンデルが実際にどのような組み合わせでアリアを演奏したのか、という歴史的観点ではなく、「自分がヘンデルだったらこうするに違いない」という再現芸術家としての観点が貫かれています。その結果、彼の「メサイア」は誰も真似することのできない、独自の存在感を持った録音として、今もカタログにその名を残しています。
「抜粋する」ときには、自分が「全体のどこを重要と考えているか」という選択眼が必要とされるわけですから、相当危険な賭けといえます。その作品を細部まで研究し、自分自身も、鑑賞する人をも納得するレベルまで持っていかなければならない。「抜粋」という行為は、細やかな心配りが必要な点において、「異稿もすべて研究し、その中から自分としての完成稿を提示する。異稿は別立てにして、演奏する側や鑑賞する側が選択して楽しめるような配慮も施す(バッハ・コレギウム・ジャパンやトン・コープマンによって現在行われている「バッハ/カンタータ全集」など)」という態度と同じく「創造的である」と言えるのではないでしょうか。
小泉氏の「まろ、ん?」は、漫画化するにあたって平安時代の服装や色彩を正確に表すため、専門家の協力を仰ぎ、徹底的な研究を行ったそうです。そのため、構想に6年、制作に3年を費やしたと書かれています。それだけの下準備があったからこそ、この本は抜群の面白さで人の心をつかむのでしょう。音楽でいえば、既発表の音源を単に継ぎ合わせただけの「抜粋盤」とは異なる気合いが込められている。そう考えると、「良いものは残る(売れる)」という当たり前の事実が大きな意味を持つことを、改めて、ひしひしと感じるのです。
(2003年4月29日)