椋本浩子さんを悼む
野中 裕


1988年の梅雨の晴れ間の日曜日、私は古楽を専門とする合唱団として その名が知られていた「コレギウム・ヴォカーレ東京」の練習に初めて参加 しました。その合唱団は音楽大学の出身者が多く、一般の大学で文学を 学ぶ学生だった私にとっては、やはり独特な個性を持った人たちの集団に感 じられました(しかしその暖かい雰囲気が気に入ってしまった私は、数年後に この団が解散するまで在籍することになるのですが)。その日私は椋本さんに 初めてお会いしているはずなのですが、どうしても鮮明な記憶が思い起こされ ません。個性派揃いのメンバーの中で、いつもやさしく冷静、どちらかというと おとなしい印象が勝っていたためかもしれません。

そんな第一印象は、練習が進むにつれて少しずつ変わっていきました。ビブラ ートを最小限に抑えた、ずば抜けて透明な美声が私の耳を捕らえたのはもちろん ですが、普段は笑顔を絶やさない椋本さんが、音楽表現や解釈、発声の話となる と打って変わった表情になり、短いながらも問題点を鋭く突く発言をなさるのです。 それから2年後、私がスコラ・カントールムを創設し、演奏会に備えてソプラノにど なたか実力者をお招きしたいと考えたとき、私の頭には椋本さんしか浮かびま せんでした。これからどうなるかもわからないアマチュアの団体に入団をお願い したとき、彼女は厭な顔一つされずに快諾されました。これは本当に歌が好き で、歌を愛する人でなければ出来ることではありません。スコラ・カントールムは メンバーに恵まれた合唱団だと私はいつも思っていますが、椋本さんはその 最たる存在でした。

スコラ・カントールムでも、椋本さんのやさしさと笑顔、そして練習中の鋭い一言は 変わることがありませんでした。指揮者の迷いや研究不足を誤魔化すことの出来な い、私にとっては恐い存在でもあったのですが、そのおかげで私も少しずつ、指揮 者として成長できたのではないかと思います。

スコラ・カントールムにおける椋本さんの白眉の演奏は、1996年2月17日の第5回定期 演奏会におけるメンデルスゾーン作曲の讃歌《わが祈りの声を聞きたまえ》でありま しょう。ソプラノ・ソロに合唱とオルガンが伴奏する、というスタイルで書かれたこ の曲について、私は「この歌詞と曲の持つイメージは、清純な少女が天に向かって祈りを 捧げている姿だ。だから歌詞の訳も少女風にしてみたんだけど」などと言って団員 の失笑を買いましたが、そのイメージが間違っているとは思いませんし、それを一点 の曇りもなく表現し得たのは、あの日の椋本さんを置いてほかにはない、と信じます。 彼女にとってもこの日の出来は非常に満足いくものであったらしく、滅多に打ち上げ の二次会に顔を出さない椋本さんが、この日に限って三次会まで来てくださいました。 なんとその上カラオケまでお付き合いとなり、小坂明子の「あなた」を熱唱したとい うのです。私は翌日があるので途中で失礼したのですが、椋本さんがマイクを握る姿 を見ておかなかったのは一生の痛恨事でした。

椋本さん、とお呼びするのは、音楽活動上の名前が旧姓だったからにすぎません。彼 女自身は、長山さん、と結婚後の姓で呼ばれた時のほうがとても嬉しそうでした。良 き伴侶を得られ、かわいいお子さんも出来た矢先の病魔の襲来に、人の世の無常 と運命への呪いを感じざるを得ません。しかし私はキリスト者ではありませんが、長 くなった合唱活動の中で、自分が死に臨んで慰めを得ると思える言葉に出逢うことが 出来ました。1997年に、ハインリヒ・シュッツの《音楽による葬送》という曲を演奏し たのですが、その冒頭に

  私は裸で母の胎から出た。
  私はまた裸でそこに帰っていこう。主が与えてくださったものを、
  主が取り戻されるのだ。

というヨブ記の一節が歌われます。人間の生き死には、人間が左右することは出来ま せん。その歴然とした事実を見つめるとき、今ある生をいとおしみ、大切にしていこ うという心が生まれるのではないでしょうか。椋本さんは、それを体現していた方で した。常に自分に厳しく、音楽に真剣に、完全燃焼した生を送られました。《音楽に よる葬送》は、合唱の歌声に支えられながら、安らかな魂(バス)が二人の天使 (ソプラノ)に連れられて天上にたどり着くさまを描いて終わります。この天使の 役を歌ってくださったのも椋本さんでした。彼女はその役目を終えました。そして 今は安らぎを得た魂として歌い続けているような気がしてなりません。

どうぞ安らかにお眠りください。


椋本浩子さんのCD「うたのおくりもの」について[齊藤義雄]


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