木下圭一〔バス〕


私が本格的に音楽と関わり始めたのは、中学2年の途中で和歌山から千葉へ転校してからでした。前の中学では、ブラスバンド部が非常に強く、年に一度の定期演奏会では市の文化会館が満員となるほどの知名度と演奏水準を誇っており、敷居の高さと憧れを抱かせるには十分な存在でした。
転校を機にブラスバンド部の門を叩き、当時吹き手が誰もいなかったチューバをあてがわれ、大きな楽器に抱えられるようにしながら(当時身長は150cmもありませんでした)ブカブカとやっておりました。

高校に入り、オーケストラ部に入部したところ、チューバはすでに先輩が使っていて空きがないとのこと、手渡されたのがトランペットでした。吹き口(マウスピース)の余りの小ささに「これでは音も出せない」と挫折しかかっていたところ、隣の部屋で練習していた合唱部の先輩がたが「そこのおまえ、ちょっと来い。カレー食わしてやっから。」と声をかけて頂いたのが、歌との関わりのそもそもの始まりでした。
最初のうちは穏当に「季節へのまなざし」などの邦人曲を練習していたのですが、ほどなく我が校伝統の(!)バッハを練習することとなりました。(我が合唱部は何とも非道なことに、年端も行かぬ高校生にバッハを歌わせ、毎年カンタータの冒頭合唱などをコンクールの自由曲として取り上げ、それを伝統としておりました。今考えるとなんと無謀な方針かと呆れますが・・・。)
もちろんドイツ語ですし、おまけに8分音符や16分音符で楽譜がなんだか黒っぽいしと、「これは大変なものをやらされたもんだ!」と身構えてもよさそうなものだったのですが、合唱を何も知らない 僕らのこと、先輩達がバンバン歌うのに合わせて、何となくバッハを体に染み込ませて行きました。知らないと言うのは恐ろしい。
OBの先輩がたも非常にしばしば遊びに来ていらっしゃいました。月曜から土曜まで、誰かしらは必ずいらしていたように思います。(学校や会社はどうしていたのでしょうか・・・いやいや、数年後には 私もOBとして、人のことは言えないほどしょっちゅう顔を出すことになるのですが。)
「この人と自分とは本当に同じ人間なのだろうか?」と思わずにはいられないほどの声や知識を誇るOB達に憧れ、だんだんと合唱から、なかんづくバッハから抜けられない体となっていったのです。

トドメをさしたのは大学で入った早稲田大学混声合唱団(早混)でした。よい仲間たちに恵まれ、バッハをはじめ沢山の歌に埋もれて4年間を過ごしたものです。
4年の時には1年生のトレーナーとして、指揮の真似ごとまでさせてもらい、すっかり舞い上がっておりました。
その間、バッハの曲はロ短調ミサ、モテット1〜3番を取り上げました。酒に歌に合宿にと、「ないのは金と単位だけ」といった放蕩な学生生活を満喫したのでした。

さて、ここでようやくスコラです。早混の先輩がたが何人か参加されていたのと、古楽を追求する「室内」(早稲田大学・日本女子大学室内合唱団)のOBが多く参加していて、「なんだかすごそうだ」と思ったのが、入団の動機といえば動機ですが、大学を出たての当時は、とにかく歌が恋しくてたまらず、声をかけて頂いた時点で二つ返事で入団を決めたのでした。
 参加してまず思ったのが、曲の途中でどんなにめちゃくちゃな出来になっても、最後の和音はきちんと決めていたことです。音程が激しく上下動しても、やっぱり最後はハモるのを聴いて、「噂に聞く室内の連中ってのは、やっぱりたいしたもんだ」と納得したのを覚えています。
最初に参加したコンサートは、確か93年2月だったと思います。当時はテノールが2人しかおらず(指揮の野中さんもテノールとして「歌い振り」をなさっていました)、本来はバスの私もその時はテノールとして歌いました。特にシュッツはテノールが先頭を切る曲がいくつかあり、かなり度胸が試されるステージでした。

思い出ぶかいステージはいくつもありますが、「特に」といえば次の2つでしょうか。
1つは96年2月の第5回定期演奏会。東京には珍しい大雪となったにも関わらず、大勢のお客さんがいらして下さったことや、早混で丹精こめて歌ったバッハやメンデルスゾーンのモテットがメインの曲目だったこともあり、非常に燃えるもののある演奏会でした。
もう1つは01年12月の第3回特別演奏会。バッハのモテット1番を歌っているときに、客席が何だか喜びに沸くような、かすかにうねるような、そんな反応を見せたように思えました。ルネサンスやバロックという、静謐な印象のある分野の曲で、こんな感覚が得られようとは夢にも思わず、楽屋で快哉を叫んだものです。特に、椋本さんという大きな柱を喪った後ということもあり、感慨はひとしおでした。

「スコラに望むこと」を書くことになっているそうです・・・。
(所詮見識の薄い身です。凡庸な物言いになることを恐れずに書きますと)
私が入った当時から今までのスコラを見て一番感じるのは、人数が多くなったことでルネサンスに手が出しにくい陣容になりつつあるのでは、ということです。より正確には、人数が多くなった割には線がしっかりせず、細く弱い糸を縒り損ねたような、(逆に人数が増えた分だけ)ぼやけた感じの声になっているのでは、と危惧しています。雄渾な声、というものは勿論ルネサンスには不向きでしょうが、細くて張りのある声、焦点の合った声というものを、探って行く時期なのでは、と思っています。

  入団して10年経った今、つらつら思うに、古楽との接点を保ちつづけられたという点で、私にとってスコラとは非常に大きな、またありがたい存在だった、と感じています。高校以来の我が青春のシッポを、スコラのおかげでまだ握り続けていられる、そんな感じです。今後もまた、そうでありつづけるでしょう。私達がこれから作る、まだ見ぬ音たちとともに。

[2003年3月]


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