植村元興〔バス〕


合唱との付き合いは、大学二年の秋に合唱団に入ったことから始まります。スコラの団員の中でも、かなり遅いほうではないでしょうか。それも「ここで歌いたい」という健全な気持ちから始めたのではなく、話の行きがかり上入団しなければならなくなったという、およそ動機ともいえないものでした。それから8年弱の月日が経った現在、合唱は私にとって不可欠なものになっています。合縁奇縁というか、人間万事塞翁が馬というか、何か不思議なものを感じずにはいられません。

私が偶然身を置くことになったサークルは早稲田大学・日本女子大学室内合唱団といいます。ここで送ったあらゆる意味でのハイブロウな生活が、今の自分に大きな影響を与えています。強烈なキャラクターの仲間たちと過ごした、おもちゃ箱をひっくり返したような愉快な日々。そして何事も人と違ったことが好きな私にとって、この団のレパートリーであるルネサンス・バロック期の宗教曲は、好奇心と琴線とを同時に刺激してくれるものでした。興味を持った事柄は極めなければ気がすまない性格のせいで、気がつくと私はコアな古楽マニアになっていました。ちなみにこれは博識な仲間の薫陶を受けた結果でもあります。私の見識など、今もって彼らの足下にも及びません。

話が少々それました。まあ、それほどに楽しい室内でしたが、この団のみんな仲良しでおおらかという美点は、裏を返せばナアナアで他力本願、本番は指揮者や上手な団員任せという欠点でもありました。上級生になった私は、同じような内容の練習が続くことに物足りなくなり、もう少しまじめに取り組んでみたいと考えるようになりました。卒団してから一年ほどは時間の遣り繰りがつかなくて合唱から離れていたのですが、いつかは、という思いは常に抱いていました。

ゆえに、スコラはもっとも魅力的な選択肢でした。野中さんをはじめ室内出身の団員が多いこと。基本的に室内と同じレパートリーなので親しみがあること。何度か演奏会を聴きに行き、特にルネサンス曲の取り扱いに好印象を受けていたこと。取っ掛かりさえあれば大学生時に入団していたかもしれません。スコラ在籍の友人に連れられて練習見学に訪れたのは、自分から頼んでではなかったのですが、入団の決意は友人から声をかけられた時点で固まったようなものでした。

以来3年半、私はスコラのお世話になっているわけです。その大きな要因として強調したいのは、練習が楽しいこと。月並みですが、そうでなくては何にもなりません。指揮者と団員との間に活発なディスカッションが存在するので、いつの練習でもそれなりの成果を必ず得られる点は、スコラという団体の強みであり、力の源だと思います。魅力一杯の曲たち、譜面からニュアンスを読み取り、彫りを深める一連の工程、意欲的で楽しい団員の方々。私にとって練習の場とは、言ってみれば次の一週間を元気に過ごす力をもらうためのガソリンスタンドなのです。

3年半というキャリアは、浅いともベテランともいいかねるところですが、印象的な演奏会について述べることはそろそろ許されるでしょう。今も光景を脳裏に思い浮かべることができるという見地からすれば、98年10月の栃木蔵の街音楽祭での招待演奏会が真っ先に出てきます。会場は築90年になる高校の講堂で、ステージ背後の壁には「質実剛健」といかめしい隷書体で書かれた額がかかっていました。開演が午後4時だったため、途中窓からは西日が差し込んできて、会場内をやわらかく照らし出しました(そういえば、演奏途中で会場の後方に猫が迷い込んで来ましたっけ)。そんな穏やかな雰囲気のおかげか、演奏のほうもうまくいきました(その年の夏に一度ステージにかけていたこともありますが)。終わった後も長らく平和な気持ちに浸っていたものです。純粋に団員だけで臨んでアカペラの曲を歌ったこの演奏会に、私はもっとも愛着があります。

その栃木にも、今年は参加しないようです。スコラのここ最近の年間スケジュールは、10月の栃木と2,3月の定期演奏会の2つをメインに動いていました。その最大目標の片方が欠けた現在、一年間の活動が定期演奏会に向けての練習のみというのは、全員のモチベーションを保ちづらくなる可能性が高い点からいっても、正直つらい所です。幸い、今年は12月のクリスマス・コンサート開催が決定したので、当面の心配はなくなりましたが、これから先もメインは年2回が望ましいと思います。個人的には、前述のクリスマス・コンサートを定期行事にできればと思うのですが。まずは今年を成功させることで、自分なりの確固たる考えを生み出し、しかる後きっちりスコラに反映させる考えでいます。

「スコラには夢がある」かつて私に入団理由を問われたある団員はこう答えました。この言葉は、今も私の中に特別な重みを持って存在しています。スコラをスコラたらしめているのは、決してひとつ所に留まろうとしない進取の精神(いみじくも「都の西北」の教えですね)と、目に見えないものから形あるものを生み出そうと試みる、団員の合唱に対する良い意味での愚直な姿勢ではないでしょうか。練習中ふと楽譜から視線を上げると、今日も指揮者と団員との妥協のないやりとりがなされています。そんな時、私はこの上ない連帯感を覚え、何かに感謝したい気持ちに満たされるのです。魯迅の「故郷」という小説に「もともと地上には道はない。歩く人が多くなれば、それが道になるのだ」という有名な文があります。5年後も10年後も、全員が同じ目標を見据えて歩む、練習に張りのある、気持ちの若い合唱団であってほしいものです。

読み返してみると、何だか盲目的な「スコラ礼賛」になってしまったような気もしますが、今のところはこれでご勘弁ください。これからもよろしくお願いします。

[2001年7月]


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