佐々木しのぶ〔アルト〕


(この記事は、1998年11月に「スコラ・カントールムで歌う私」と題して掲載されたものの再録です。)

まずは合唱を始めた頃の話をしましょう。高校に入ってまもなく、友人に誘われて合唱部に入ったのが、合唱を始めるきっかけでした。ルネサンス時代のモテットやミサ曲に最初に接したのもここです。当時合唱というと、中学までの音楽の授業であてがわれていたような曲というイメージが出来上がっていましたから、そうしたものとは別の、つまり児童向けの絵本や読書感想文の課題図書のように「〜才向け」というラベルのついていない曲がある、ということがとても新鮮に思われました。別の言い方をすれば、それまでは合唱にほとんど関心がなかった、ということになってしまうのですが。まあ、そんな具合で歌とのつきあいを始めたわけです。

まず最初に、クラブの愛唱歌を数曲やりました。このなかには、どこの合唱団でも歌われる曲に混じって、パレストリーナのモテットなども入っていました。新入部員が入った頃はそれで肩慣らしをさせて、その後半年のあいだ、ひたすらコンクールのための曲を練習する。毎年そんなスケジュールでやっていたということでした。当時はまだ定期演奏会をやっていなかったのです。それで、6月に入るあたりからは、コンクールの課題曲と、W. バードの「5声のミサ」から「キリエ」と「グローリア」、毎日この3曲を練習していました。演奏時間は10分にも満たない3つの曲をです。よくもまあ飽きずにやっていたと思います。

理想とする声のイメージとか、自分なりの歌のスタイルとかいったものは、そうした状況のなかで徐々に刷り込まれていきました。そしてそのイメージは、おおよそのところ今でも変わっていません。3つ子の魂、って言うべきか、単純だと言うべきかは知らないけれども。

では、どのような音を目指してきたかといいますと、太くて明るい響きを持った、豊かな声。私のイメージの中にある「東北で聞いていた声」というものです。これは東北出身者のひいき目かもしれませんが、どのパートの声、むろんソプラノの声にも、深みがあってしっとりとした趣がありました。弦楽器のボディって、ツヤのあるいい色をしていますね。ああいう感じです。古楽とはとても相性のよい声だと思います。もちろん、それが東北だけのものではないことは、言うまでもありません。

さて、高校の合唱部で歌ったあとは、やはり大学のサークルで合唱を続けることになりました。レパートリーは邦人曲が中心です。常任指揮者の先生というのが、メロディーの流れを表現することに対して強いこだわりを持つ人でした。メロディーというものを波に喩えるとすれば、凪からさざ波、波浪注意報の出そうな波まで、あらゆるニュアンスを表現しようとしていましたね。まさに官能的な、とも言えるような音楽作りをする人でしたね。 このサークルについては、合唱経験者が少ないにしては委嘱作品を演奏する回数が多い、しかもその割に合唱そのものにハマりきれないメンバーが多いという印象が残っています。そういうところでしたから、私自身はパートリーダーを担当するなど、けっこう深く関わっていたわけですけれど、歌をやるにはちょっと物足りないなぁという感じはありました。そんな時に、「ルネサンス音楽をやる団体があるんだけど、どう?」と誘われて遊びに行ったのが、スコラ・カントールムでした。私を誘ってくれた人は、いまは在籍していませんが、ひと足先にスコラ・カントールムに入団していました。「高校時代にルネサンス音楽をやっていた」というような話をしていたのを覚えていてくださったのでしょう。その団員というのも、ある作曲家の曲を集中して演奏している大学があるというので、別の大学からときどき私のいた合唱団に遊びに来ていたというのですから、まあこうした縁というのは不思議なものだと思います。

歌との出会いから現在に至るまでは、こんなところでしょうか。そろそろ、スコラ・カントールムの話をしましょう。

入団したころは、14人から15人の集団だったのが、今では30人前後になって、集団としてのありかたが随分変わってきましたね。練習について言うなら、週1回という今のペースでよいと思います。他の合唱団とかけもちをするにも、仕事の合い間を縫って参加するにも、このくらいのペースがちょうどいいでしょう。コンサートの直前に、週2回にペースアップするのも、まあ妥当な線ですね。ただし、今年のように真夏にコンサートをやる場合は、同じペースで練習をしていくにはいささか無理があるように思われます。何と言っても、東京の夏は暑いのです。無理は禁物です。

レパートリーについては、そうですね、始めの頃はルネサンスもの中心だったのが、バロック寄りになってきた感じがします。人数と声部のバランスを考えると、どうしてもそうなってしまうようですね。まあ、このあいだのコンサートではジョスカンの「パンジェ・リングァ」をやりましたから、そういう意味ではバランスが取れていると思います。いずれにせよ、ルネサンスものをピタッと合わせていくような方向は、これからも保って欲しいところです。

そうそう、選曲と言えば「ドイツものをやるときはバッハかシュッツ」、「イタリア、イギリスものはあまりやらない」、「マイナーな曲や禁欲的な曲を選びたがる」というカタヨリは、何とかしたいものです。どうしてそうなってしまうのか分かりませんが、演目の中で団員のウケがよくない曲が多いというのは、ちょっと問題があるのではないでしょうか。知られていない曲、難しい曲にチャレンジしようという気持ちも分からなくはないのですが、よく知られている曲かそうでない曲かを問わず、ふくよかな魅力を持った曲も歌いたいというのが正直なところです。それでいうと、数年前に演奏したメンデルスゾーンのステージなどは、素直に感情移入できる佳曲を選んだこともあって、よい印象が残っています。外では雪も降っていましたし。個人的に思うところもありましたし。

大雪の降った日のコンサートも印象深かったけれど、栃木の蔵の街音楽祭でのステージというのも、なかなかのものでした。去年は栃木市民文化会館のエントランスホール(建物を入ったところにロビーがあって、そこからホールへ向かう大きな階段がありました)で W. バードの「5声のミサ曲」を演奏しました。このときは薄れていく西日がおもな照明装置で、薄暗くなっていくにつれ会場がしんと静まりかえっていき、曲の終わりでは、最後の音がその暗がりの中にすうっと消えていきました。そして今年は、明治時代に建てられたという栃木高校の講堂を使わせていただいて、やはり夕陽を浴びながらのステージ。こういった場所で演奏すると、会場選びもまた、コンサートの重要な要素であることを再認識させられます。何事につけても、舞台設定は大切ですからね。 ステージの上では、緊張してうまく歌えないことの方がこれまで多かったのですが、最近ようやく余裕ができてきたのか、演奏のあいだ集中力を保てるようになってきました。それから、まわりの状況や自分のコンディションに応じて、ブレーキをかけたり、逆にアクセルを踏み込んでいくといった調整もできるようになりました。自分では、いい手ごたえを感じています。この調子で少しずつ上達していけたら、というのが今の希望です。

さいごに、スコラ・カントールムという集団についてひと言。なんらかの集団に属することを考えた場合、それぞれが自分の持っているもののなかから少しずつ、そこに置いていくような、クールな関係をつくることのできる集団を、より好ましいと思っています。こういう状態は、集団そのものを維持することとは別に、その集団が目指しているものがクリアーになっているとき、実現できるものかもしれません。その点から見るならば、入団した当時のスコラ・カントールムは「とにかく形のあるものを作ろう」という目標があって、そこにエネルギーが集中していたように思います。何年か経験をかさねてきたことで、その目的は十分果たせたと思います。メンバーの数は、私が入団した頃のほぼ2倍にまで増えました。素晴らしいパートナーにも恵まれていますし、ひとつの集団として、外部からもそれなりに認知されるようになりました。ひとつ言いたいのは、もう形は出来上がっているのに、まだ形をつくることそのものにこだわり続けているようなところがあるということ。いいところまで育ったのですから、そろそろ出来上がった形に磨きをかけたり、彩色を施したりして、熟成させていってもよい頃合いではないでしょうか。いまは忙しくてなかなか練習に参加できないメンバーがいたりして、1回1回の練習で曲を形にすることが大切であるかのように考えがちです。しかしそれ以上に育てていかなければならないものがあると思います。つまり合唱団としての個性ですね。どんな個性を選択し、それをどう作っていくか、それがこれからの課題だと思うのですが、いかがでしょう。


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