創世記 49章
1 背景
あまり馴染みのない旧約聖書ですが、たまに読んでみるとその登場人物たちの言動の驚くほどの素直さ、直截さに思わず親近感を覚えることがあります。そこには「聖典」、「父祖」といった荘厳なイメージとはやや違った、実に愚かしくも愛おしい、まさしく「人間」の営みが語られているように思われます。
シュッツの「宗教的合唱曲集」1〜2番のテキストが含まれる創世記37〜50章もそんなイスラエル民族の太祖たちの物語の中にあり、「ヨセフ物語」と呼ばれる部分です。お馴染みの天地創造、アダムとエバの楽園追放、ノアの箱舟、バベルの塔など、ことさら神話的雰囲気の強い場面を通り抜けたところから、この太祖たちの物語が始まります。
最初に出て来るのはアブラハム(初名:アブラム)。彼は箱舟で洪水を生き延びたノアの直系で、最初に神に選ばれ、カナンの地(現在のパレスティナ)を与えられた預言者であり、イスラエル諸部族の「信仰の父」と仰がれる始祖です。175歳で死亡。
その跡継ぎはイサク。ルネサンス美術のお好きな方なら、フィレンツェの「イサクの犠牲」のレリーフをご存知でしょう。イサクはアブラハムの次男ながら、長子で異母兄のイシュマエル(アラブ人の祖とされる)が策に落ち追放されたことで家督を継ぎました。180歳で死亡。
その後継がイサクの息子のヤコブ(後にイスラエルという別名を神から与えられる)。彼も双子の弟ながら、母の策略により双子の兄エサウから長子の祝福を横取りしたのです。
神に選ばれた民でありながら、彼らは決して品行方正でも聖人君子でもなく、醜い強欲と陰謀の匂いを漂わせながら、意外と自由にたくましく生きています。そして、挙句にいつも神の怒りを買い、滅ぼされ、でもしぶとく生き残る者があり、改心してもまた懲りずに堕落して神の怒りを買う…。
さて、ヤコブもまんまとイサクの祝福を受けたまでは良かったのですが、この陰謀によって自らも追っ手に狙われる日陰者となり、一時母の兄、つまり自身の伯父であるラバンの元に身を寄せます。ラバンには二人の娘がいました。つまり、ヤコブにとってはいとこ。優しい目をした姉のレアと、美しい妹ラケル。ヤコブは迷わず美しい妹のラケルを妻に所望しました。
ここでまた人々の思惑と陰謀が交錯し、結局ヤコブは姉のレア、美しい妹のラケル、更にレアの女奴隷ジルバ、ラケルの女奴隷ビルハとも契り、結局4人の妻から12人の息子が生まれ、彼ら(正確にはこのうちの10人と2人の孫)がイスラエルの12部族の祖となるのです。(ちなみに、ヤコブには娘もいました。)
以上の事情の通り、ヤコブは美しいラケルを愛し、レアを疎んじました。レアは最初に結婚した第一の妻ですし、12人の息子のうち長子を含む6人と一人娘のディナを生みました。それでもヤコブは美しいラケルだけを愛するので、悲しみに沈むレアは次々生まれる子供たちに悲しい名前を付けるのです。「主は私の苦しみを顧みられた」、「主は私の不遇を耳にされ」、「今度こそ夫も私に結びついてくれるでしょう」「今度こそ夫は私を尊敬してくれるでしょう」。そんな意味の名前です。かわいそうなレア… と言いたい所ですが、旧約の女はこんなことでただ泣き寝入りなどしません!
愛されはしても子を授からないラケルも、結構姉レアを妬んで姉の息子ルベンのみつけた「恋なすび」を横取りしたり、レアも妹に悪態付いた上、その夜のヤコブを妹から奪って仕返しをしたりと、決して美しくも儚い悲話で終わらないところが、さすが創世記です。
ちなみに、この「恋なすび」というちょっとすごい名前の植物は、砂漠地帯以外のイスラエルで普通に見られるナス科の植物だそうです。
さて、神はとうとうラケルにも子を与えましたが、二人目の息子ベニヤミンの出産の時、旅の途上の難産でラケルは死んでしまいます。傷心のヤコブは、ラケルがやっと産んだ末の2人の息子、ヨセフとベニヤミンを明らかに贔屓して育てました。幼いベニヤミンは決して手元から離さず、ヨセフには裾の長い晴れ着(=権力の象徴)を与える始末。
当然、兄たちは面白くなく、またスポイルされたヨセフは世間知らずのくせに自信家の少年に育ちました。ヨセフはわざわざ兄たちを「夕べ僕は、兄さんたちみんなが僕の周りにひれ伏して僕を拝む夢を見たよ。」などと小憎たらしい話で挑発するものですから、とうとう兄たちはヨセフ殺害を画策します。
しかしこの殺人計画が実行される直前に、たまたま通りかかったイシュマエル人(アラブ人)の隊商を見つけた兄たちのうちの一人、ユダが提案を行います。「弟を殺して、その血を覆っても、何の得にもならない。それよりあのイシュマエル人に売ろうではないか。弟に手をかけるのはよそう。あれだって、肉親の弟だから。」(創世記 37章26〜27節)
結局ヨセフはうっかり赤の他人のミディアン人の手に渡ってしまい、彼らによってやはりイシュマエル人に売られ、エジプトまで連れて行かれてファラオの侍従長ポティファルに転売されました。…ややこしい話ですね。殺すにしろ、騙すにしろ、仲直りするにしろ、結婚するにしろ、売り飛ばすにしろ… 一筋縄ではいかないのが彼らなのです。
でもここでのポイントは、ユダがヨセフに温情を見せたところにあります。これは後にもう一度出て来ますので、覚えておいて下さい。
さて、エジプトに売り飛ばされたヨセフですが、途中無実の罪で投獄されたりもするものの、「主がヨセフと共におられたので」、彼は「総てのことをうまく運び」、ついにはエジプトに於いてはファラオに次ぐ宰相の地位にまで上り詰めました。そしてファラオの夢を「主がヨセフと共におられたので」見事に読み解き、その夢に予言された7年の大豊作とそれに続く7年の大凶作を、手腕を振るって乗り切ったのです。
一方、ヨセフの父ヤコブとヨセフの兄たちの一族はどうなったかと言うと…。
彼らは未だカナンの地にあり、ヨセフはとうに死んでしまったと信じ、そしてこの大凶作に喘いでいました。ついに彼らは有り金をかき集め、豊かだと音に聞くエジプトに食料買出しに向かいます。
そして、ヨセフとの運命の再会。
ここでまた意味不明のまどろっこしい策略を経て、とうとうヨセフと兄たち一族は和解し、彼らはエジプトでも最も豊かな土地を与えられ、そこに落ち着きます。
この、兄たちとの和解の場で述べるヨセフの台詞は、あの浅はかな自信家の少年ヨセフが苦難の人生を経て成長したことを窺わせます。「私はあなたたちがエジプトへ売った弟のヨセフです。しかし、今は、私をここへ売ったことを悔やんだり、責め合ったりする必要はありません。命を救うために、神が私をあなたたちより先にお遣わしになったのです。(中略)神が私をあなたたちより先にお遣わしになったのは、(中略)あなた達を生き永らえさせて、大いなる救いに至らせるためです。私をここへ遣わしたのは、あなたたちではなく、神です。」(創世記45章4〜8節)
あの世間知らずの少年が、神の深遠なる計らいに思い至り、自分の命を狙い辛い流浪の人生を強いた兄たちを許せるまでに成長したのです。
とにかく彼ら一族は、エジプト人から時に蔑まれ時に抑圧されつつもこの地に留まり、次の章、モーセに率いられた「出エジプト」へと話が繋がって行きます。
が、「出エジプト」に至る前に、まず年老いたヤコブがこの地で亡くなります。享年147歳。
そのヤコブがいまわの際に息子たち一人ひとりに与えた言葉、いわば遺言の一部が、シュッツの「宗教的合唱曲集」1〜2番のテキストである、ユダについての言葉なのです。
【次回に続く】