創世記 49章8〜12節について【第2回】
高橋恵美


2 ヤコブの祝福

このヤコブの遺言、新共同訳では「ヤコブの祝福」と題され、「父は彼らをおのおのにふさわしい祝福をもって祝福したのである。」と書かれているのですが、中には不吉な不幸の言葉を与えられた息子たちもおり、むしろ「祝福と戒め」と言った内容です。
そんな中で、ユダに与えられた言葉は、ヨセフと並んで「大吉」的な内容でした。この稿の冒頭に掲げた創世記49章8〜12節です。
なぜユダが他の兄弟より幸先の良い言葉を得られたのか、ということでは、彼のリーダーシップに言及されることが多いようです。ヨセフ殺害未遂事件のところで触れたようにヨセフに温情を見せたり、またエジプトでヨセフと和解する場面においても、彼はヨセフと年老いた父、兄弟たちの間を取り持ちつつ重要な役目を果たしたりしました。

ユダはレアの四男。彼を始祖とするユダ族(なお、ヘブライ語では、ユダとユダヤの区別は無い)からは、後にダビデ王やソロモン王、そしてイエスが出ることになる名門。ダビデ王が一旦統一したイスラエル民族はその後分裂し、このユダ族と、ヤコブの末子ベニヤミンを始祖とするベニヤミン族が南のユダ王国を形成する。イスラエルのその他の10部族からなる北イスラエル王国は紀元前722年、アッシリア帝国に滅ぼされるが、ユダ王国はその後「バビロンの捕囚」の紀元前586年まで存続。

さあ、お待たせしました。いよいよシュッツが引用した部分の読解に取り組みましょう。

3 獅子、王権の継承


8節:ユダよ、あなたは兄弟たちにたたえられる。あなたの手は敵の首を押さえ/父の子たちはあなたを伏し拝む。
9節:ユダは獅子の子。わたしの子よ、あなたは獲物を取って上って来る。彼は雄獅子のようにうずくまり/雌獅子のように身を伏せる。誰がこれを起こすことができようか。
10節:王笏はユダから離れず/統治の杖は足の間から離れない。ついにシロが来て、諸国の民は彼に従う。

「獅子」は王を意味し、ユダ族が王族としてイスラエル民族を支配することを示していると解されています。ちなみに、ユダ族の記号は獅子です。新約聖書のヨハネによる黙示録には「ユダ族から出た獅子、ダビデ(5章5節)」という表現も出て来ます。
「王笏はユダ(族)から離れず」は文字通り。旧約の中では「〜の子孫」という意味で「〜の腰から出た子、孫」という表現が使われることがあるようですが、「足の間」もこれと同じ発想で、つまり子孫のこと。あまり上品な表現ではないような気がするのは… 気のせいでしょうか。

そういえば、シェイクスピアの「マクベス」にも魔女の予言として似た表現が出て来ます。マクベスは「女の股から生まれた男」には倒されることが無いと予言されますが、政敵マクダフは何と自然分娩ではなく「母の腹を破って生まれた」というオチ。過去には、このマクダフから「帝王切開」という言葉が発生したという説もあったとか。

話が逸れました。元に戻りましょう。
「ついにシロが来て」の「シロ」は極めて意味不明で、地名であるとか、城・宮殿であるとか、人名、いや代名詞だ、いやいやヘブライ語ではメシアと同じ表記だ… などと決定的な学説は今のところ無いようです。が、ユダ族からダビデ王やイエスが出ていることから「救世主」を示唆していると解されることが最も一般的なのだそうです。
とすると、これはユダ族の子孫から救世主が出て、諸国の民が彼に従うだろうとの予言でしょうか。

新約聖書を知っている我々からすると、このようにイエスの出現を予言しているかのように符合する表現や発想を既に旧約聖書の中に見出すのは時間を遡るようでやや違和感がありますが、でも考えてみれば、信仰を大切に守って来たイスラエル民族の中で生まれ育まれたイエスの物語に、旧約の時代の思想が反映されるのは全く不思議なことではありません。特にマタイ福音書はイエスの生涯のうちに旧約の予言の成就を見るのが特徴で、「これは〜の預言が実現するためであった」とか、「こうして〜という預言が成就した」という表現が多く見られるようです。

【次回に続く】

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