創世記 49章8〜12節について【第4(最終)回】
高橋恵美


5 ぶどう酒、衣、乳と蜜の流れる地


11節:(上記の続き)彼は自分の衣をぶどう酒で/着物をぶどうの汁で洗う。
12節:彼の目はぶどう酒によって輝き/歯は乳によって白くなる。

この部分は、一読してイエスの受難が思い起こされます。つまり、イエスが十字架上の死に際し流した血(=ぶどう酒、ぶどうの汁)が我々の罪を洗い、その結果罪が濯がれ白くなる、というイメージです。
これが旧約に書かれていることこそ、一瞬時間を遡る思いがしますが、先に書いた通り、こうした民族に受け継がれたイメージに沿ってイエスの物語が語られたということなのでしょう。

ぶどうは良いものを多く象徴しますが、一方でぶどうの汁、ぶどう酒となると、これは渇きを癒し命と活力を与えてくれるものであると同時にやはり「血」、特に「罪のために流される血」のイメージに繋がります。イエスが最後の晩餐においてぶどう酒の杯を手に取り「これは、罪が赦されるように、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である。(マタイによる福音書 26章28節)」と述べたのは言うまでもありませんが、イザヤ書(旧約聖書の中の三大預言書の一つ)にもぶどうの絞り汁と人の血とが区別無いかのように出てくる場面があります。
「「なぜ、あなたの装いは赤く染まり/衣は酒ぶねを踏む者のようなのか。」/「わたしはただひとりで酒ぶねを踏んだ。諸国の民はだれひとりわたしに伴わなかった。わたしは怒りをもって彼らを踏みつけ/憤りをもって彼らを踏み砕いた。それゆえ、わたしの衣は血を浴び/わたしは着物を汚した。」(イザヤ書 63章2〜3節)」
昔、ぶどう酒を作るためにぶどうの果汁を絞る時、石造りの大樽(酒ぶね)にぶどうを入れて人がその中に入り、足で踏んで絞りました。来ている衣服は跳ね返る果汁で赤く染まったのでしょう。それが上記のイザヤ書では、神が怒りで人々を踏み砕き、その返り血に染まったというような話に転じています。

我々が歌う創世記の49章11節では、ろばを良いぶどうの木につなぐことで子孫繁栄を表現しているとすれば、それに続く「着物をぶどうの汁で洗う」のは、ぶどうがたわわに実り、酒ぶねでぶどうを踏む時にたっぷりのぶどうから豊かに果汁が絞られ、まるで衣服を洗うかのように大量の跳ね返りを帯びる、つまり11節全体が国(民族)の繁栄を表現していると考えれば、ここに「血」のイメージを見ないことも可能と言えば可能かもしれません。更に、「乳」は羊と共に生きた当時のイスラエルの人々にとっては代表的な財産であるし、神から与えられたカナンの地は「乳と蜜が流れる地」と表現されるほど「乳」は豊穣と幸福のシンボル。歯が白くなるほど乳を飲めるなんて、12節も祝福にあふれた繁栄のイメージが続いていると考えることも出来るかもしれません。

しかし、上記のイザヤ書の部分を見ると言い回しが非常に似ていますし、「衣」や「着物」は「身にまとうもの」、つまり人々がその人格の上にまとう「行動」「振る舞い」といったものの比喩であることも多いということを併せて考えると、ぶどう酒で衣を洗うというのは、やはり何らかの生け贄の「血」で、罪を犯すという「行動」をあがなうことを意味しているように思えます。そしてそのあがないの血により、清められ新しい命を生きる力を与えられる、と。

そう言えば、日本聖書協会発行の新共同訳(現在の主流で1987年の翻訳)で「ぶどうの汁」となっているところは、シュッツの歌詞ではWeinbeer-blutとなっていますが、日本聖書刊行会による1970年翻訳の新改訳では「ぶどうの血」となっていてシュッツの歌詞と同じです。この他にも、翻訳によっては「ぶどうの血」となっているところを新共同訳では「ぶどうの汁」「ぶどう酒」と訳している例があるようです。

また、新約聖書の中のヨハネの黙示録では、世の終わりに神の目にかなう「勝者」は「白い衣」を身に付けると表現されています。そして「彼らは大きな苦難を通って来た者で、その衣を小羊の血で洗って白くしたのである。(ヨハネの黙示録 7章 14節)」ともあります。これは明らかにイエス(=小羊)の受難による罪のあがないを指しているのでしょう。

創世記の「ヤコブの祝福」が書かれた時に、その筆者がイエスの受難を具体的に念頭に置いていたとは思えませんが、しかしシュッツがこのテキストに曲を付けた時にはきっとこれを連想していたに違いないし、典礼でこのテキストを聞いた会衆も必ずこれを思い出しただろうと思うのです。
シュッツはこのテキストに曲を付けながら、イエスの血をもって濯がれる我々の罪とは、イエスが自らの死をもってしてまで我々に残した希望とは何であると考えていたのでしょうか。
もしタイムマシーンが手に入ったら、シュッツにも尋ねてみたいものです。(了)

※ 聖書の引用は、特に断りが無い限り日本聖書協会の新共同訳による。


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